シナリオとは英語でscenario、映画やテレビの各場面や、その順序、俳優のセリフ、動作などを記し、監督の演出の基礎となる台本・脚本・スクリプトとあった。
映画やドラマをみて感激したり、時に涙する自分ではあるが、よく考えてみると誰かが、シナリオ・ライタ−と言われる人が、そのせりふを書いたのであって、それに感激したりしている自分を考えたりする。小説の場合もその活字は作者の筆になることは間違いない。
宮本武蔵の墓を見たとき、私の頭には「吉川英治の武蔵像」があり、「お通」のことを思ったりした。海軍軍医になった理由のすべてとは言わないにしても、新聞に連載されていた「海軍」を思わずにいられない。
西洋の近代科学や近代思想とくに進化論学説に影響をうけ、翻訳された歴史書によって日本の明治維新がほとんど西洋医学に端を発しているということを知って、仙台医学専門学校へ勉強にきて解剖学の「藤野先生」にあった魯迅のことが解説されていた。(駒田信二:世界文学全集、集英社、1978.)
魯迅の「吶喊」の「自序」に「医学など少しも大切なものでない」「彼等(中国人)の精神を改造することである。そして精神を改造するものとしては、わたしはその頃、当然文芸を推さなければならぬと考えていた」とあった。そして毛沢東は「魯迅は中国文化革命の主将であり、偉大な文学者であったばかりでなく、偉大な思想家、偉大な革命家であった」ともあった。中国の江主席が訪日されたとき仙台をおとずれ魯迅が勉学した往事を偲んだと報道された記憶がある。
弘前出身の陸羯南(くがかつなん)は明治22年2月11日明治憲法発布の日に「日本」新聞を創刊したとき「新聞紙たるものは政権を争ふの機関にあらざれば則ち私利を射るの商品なり」と新聞の本質をついたことを述べながら「我が”日本”は固より現今の政党に関係するにあらず・・・・一定の義あり」といって論説を展開した。
NHKが放映した「四大文明」もそれなりに貴重な映像を提供してくれたとは思うものの、10年前に発見された遺跡ワ−クズマン・ビレッジでの人骨の分析によって「公正で客観的な立場を堅持しているといわれるヘロドトスの歴史」(松平千秋訳:岩波文庫)以来いわれてきた「エジプトのピラミッド建設に従事した人々が奴隷ではなかった可能性を示唆、建設の目的もナイル河の氾濫により仕事を失う農民たちの生活を支えるために王が与えて衣食住を保証したものである公共事業説が有力になった」とのナレ−シヨンが流れたが、しょせんは「2000年におけるシナリオ」ではないかと思ったりするのである。
ほぼ同じ時期にかなりの「文明人」が住んでいたと思われる青森の「三内丸山」にも色々な「シナリオ」が語られている。
岡田康博さんの話に「考古学 地下に真実 地上にロマン」とあったが、「この国のかたち」で有名な司馬遼太郎さんの「想像」については前に「物書きは自由である」と書いた。
小説は作者が創作したものであり、それが事実であるかを考える必要はないという意見もあるが、それでは小説家は何を書きとめ言おうとしているのであろうか。
宇野千代さんが「私には書きたいものがある。だがその生活費を得るために色々注文に応じて書いているのです」と話していたことが記憶にある。
科学的研究の論文もつきつめれば、観察された事実についての考察をして報告しているのであって、このことは作者の考え、「シナリオ」といってもよいものを書いているのではないかと思うことがある。
たまたま自分が研究していたことであったので、テレビドラマ「いのち」の中で橋田寿賀子さんが「この東北には高血圧が多い」と言わしめていたことに、そういう事実は、青森医専から弘前医科大学時代という時代設定の当時、「この東北にあだり(脳卒中)が多い」とは分かっていたが、「高血圧が多いがどうかはまだ分かっていなかったので、それを言えるはずはない」と抵抗を覚えた自分ではあるが。
「評論家の功罪」に書いたことがあるが、その当時このこととくに食塩摂取についていくつかの「シナリオ」があった。
「人間は一日12から15グラムの塩が生理的にどうしても必要である。尿や汗にまじって毎日排泄されるので、成人で一日当たり約10から15グラムを摂取しなければ生命を維持することができないのである」(世界大百科辞典川島四郎)。「塩というものが、人間の生存にとって不可欠な物質である。塩をとらなければ死んでしまうのである」(社会学者加藤秀俊)。「菜食をしますと野菜はカリウムが多い関係でどうしてもナトリウム塩を欲しくなるのです。塩をとりすぎて血圧を上げる恐れは菜食にあるのです」(医学評論家石垣純二)。
このどれもが現在の医学常識からいって頭をかたむけざるを得ない考え方であるが、疫学的研究の展開による謎解きによって「食塩過剰摂取の害」を指摘し「文明化は食塩化」とか「りんごには高血圧予防の効果がある」と私なりに「シナリオ」を書いたのであるが、どんなものであろうか。
連続テレビドラマ「私の青空」も終わった。
夏の保健活動で何回もおとずれた下北の大間が舞台のドラマであり、ヒロインの”なずな”が孫の名前と同じだったこともあってよくテレビをみていた。
随分大間と東京は近くなったものだと思いながら、色々の話題がいれかわり立ち替わり、とんだおさわがせのドラマであったが、作者の内館牧子さんはこの中で何を言いたかったかと思ったりした。
たまたま「婦人公論9/22」に談話が出ていた。「私は・・従来とは違う男らしさを書こうと試みています。正と負で言うなら負の男らしさというのかな、どこかしらはみだした人をつくりたいと思っています」とあった。最終回にちかい場面で「”私の青空”を日本中に広めたい」ともあった。そのようにご本人が言っているのを読むと、いろいろな場面がなっとくされる。
シドニ−・オリンピックも今日閉会式である。
数々の名場面・名勝負・名演技そして数々の名せりふを楽しませて戴いたが、私にとっては開会式の点火の最終ランナ−の「シナリオ」はなんであったのか考えたりした。またオリンピックの旗が無風の競技場で「はためかなかった」ことを確認した。また銀メタルをとったシンクロの鼻クリップの考案が前に書いたことなので気になった。
女子400で「フリ−マンはアボリジニ−と国 重圧に勝った」ともあった。私には”アボリジニ−”のことは疫学研究の中で”no-salt culture”にある人との前々からの認識があった。シドニ−・オリンピックの開会式のメッセ−ジは何であったのであろうか。
それにしても巨人・中日の最終戦9回裏のあの江藤・二岡のホ−ムランの逆転劇は「事実」であって誰の「シナリオ」にもなかったことであった。(20001001)