思うままに

          

 随筆欄に”産業医学に関係のない面で、気のおもむくままに、ご自由に”という依頼ではあるが、私にとっては戦後勉強にもどった慶應義塾大学医学部衛生学公衆衛生学教室での研究のデビユ−が一酸化炭素中毒に関することであったので「産業医学へのノスタルジア」がある。

 このことについては日本産業衛生学会東北地方会ニュ−スということで角田文男会長が始められた”みちのく”(5, 2, 1991)「衛生の旅Part5」に書いたことがある。私の発表に質問されたのは石川知福先生であり、”慢性CO中毒はあるか、ないか”であったと結んだのだが、重複はさけなければならない。

 ただ当時まだお元気だと書いた先生方が次々とお亡くなりになり、寂しく感ずる今日この頃である。

 

 昭和18年9月の卒業だからかれこれもう55年もたってしまった。 

 昭和29年に弘前大学へ助教授として赴任した。ドラマ「いのち」の時代であった。61年に65歳で停年退官したのだから、それからもう10年以上もたってしまった。杉田玄白の「耄耋独語」(おいぼれのひとりごと)ではないが、衰える一方である。

 戦争でも死なず、慶應義塾から弘前大学へ赴任したとき「あっと驚いた話」があったが、国家公務員・教育公務員特例法にもとずく教員として無事勤めあげ、男の子供3人を社会におくりだし、今は妻と二人の年金生活ではあるが、94歳まで生きた両親の年齢まではまだ大分ある。

 「塩少々とリンゴを毎日一個は食べ」とわが学問に忠実に生活し、「たばこ」はやめ、ゴルフやスキ−を楽しむためにウオ−キングをかかさない。”老人の星”グレンのように。

 今へたばるようなことがあれば”ナオスケ”「先生」も色々と衛生学でしゃべっていたのに、両親より若く死んでしまったとあとで色々いわれることだろう。

 「成人病から生活習慣病へ」と言われる時代になった。その基礎づくりの研究に関係してきたという思いと、学問に忠実に生活して行きたいという思いだけである。

 女子大も年でやめたので若い女性に接する機会は少なくなった。弘前の飲み屋街の鍛冶(かじ)まちで”カラオケ”を楽しむこともほとんどなくなった。

 冬の楽しみはスキ−である。

 学生時代に赤倉ではじめ、弘前へきてからも続けている。医学部ではスキ−部長などやって東医体についていって、東北のゲレンデを渡りあるいた。

 今は家内と二人で我が家から30分の大鰐へ行く。それも晴れの日、雪質のよい日を選び、人混みの土日はさけウイ−クデエイに、大鰐全山貸し切りのようなゲレンデで、最高贅沢なスキ−を楽しんでいる。

 バブルで巨大投資をやったので立派な設備になった。町は赤字に苦しんでいるが、滑るほうからいえばリフトが動き、雪をならしてくれればそれで十分である。おまけにシルバ−料金で。帰りに入る町の温泉も150円である。

 

 それでも死ぬときは死ぬのであろう。いつまで生きていけるものか。何十万という年寄りといわれる人々がそんな思いで今生活しているのであろう。若いときはそんなことは考えもしなかったし、戦争で自分が死ぬとは考えもしなかった。

              

 少し前「一日一考」といって、岩木山をながめての朝の散歩中に頭に思い浮かんだことを帰宅後ワ−プロにいれていた。そのまとめが「衛生の旅Part 5」になったのだが、昭和天皇が亡くなられたあと我々の知らない情報が次から次ぎと出てきて今まで何を考えていたのであろうかと筆がすすまなくなった。

 私のような医学者・疫学者は”正しい情報”がないといけないと思う。そして世界人類共通の健康問題である。疫学は地域住民の健康問題から出発するとは思うが、今や”international”から”world”である。

 1970年ロンドンで開催された第6回世界心臓学会で私が日本の高血圧と食塩摂取のことを報告したときの出だしの文句は「高血圧についての疫学的研究は、人間の集団の血圧の観察からはじめなければならない。このためには、まず地球上に住む人々が、はたしてどんな血圧をもっているかを知らなければならない」であった。そしてその中で”グロ−バル”なんていう言葉を30年前用いている。

 それと比べて政治の世界・主義主張の世界は色々である。しかしそれによって世の中がうごかされ、人々は生きてきた。

 今「病は世につれ 世は病につれ」を他に連載中であるが、そんな気持からである。

 

 ここ二三年気になることがある。

 それは「言葉・文字そしてその意味」ということである。

 日本医事新報に一寸書いのだが、そのきっかけは現在青森で最大の話題といってよい三内丸山遺跡発掘のあと、それも今のように埋め立ててしまう前にその姿を見たからである。

 亡くなった司馬遼太郎さんが”街道をゆく”を連載しているとき、朝日新聞(1994.7.16.)一面トップの記事をみて、三内にかけつけた話が書かれている。そして”北のまほろば”というべき地だったのではないかという思いが深くなった、と書いた。

 直径1メ−トルものクリの木といわれる巨大な木が6本、一定の間隔をおいて立っていたと考えられている。建築工学的に地面を調べたら少し斜めに建っていたと考えられた。今は見られない上部構造はどうなっていたのであろうか。色々考えられると意見が出ている。

 司馬さんは”人が海から帰らぬ日。あかあかと望楼に火を焚かせ、戻るまで首長が・・・この翡翠をくびからぶらさげて・・・待っていたのであろうことを想像した”と書いている。物書きは自由である。

 ”アイヌは陽のくれぬうちに家にかえるのです”といって引退していった議員さんの言葉のほうが私には印象的であった。

 屋根があるとか、ないとか、今はもっぱら”神殿説”が有力であるが。

 五千年以上も前に、数百人の人達が共同に生活し、何をしゃべっていたのであろうか。今もむずかしい”津軽弁”であったのであろうか。

 文字らしいものはまだ見つかっていない。だから”文字による文化”はない。しかし今見てもすばらしく斬新に思えるデザインの模様をもった土器が出ている。気温が今より暖かったせいか、山海の幸にめぐまれ”かなりの文化人”が住んでいたことに間違いはない。

 われわれの文化といわれているものは”活字”文化である。中国然り、ヨ−ロッパ然り。その文字に”宗教”が書きとめられ、本の中の本が”バイブル”と言われたとあった。

 

 私の学んだ”医学”はいわゆる”西洋医学”である。その中の”衛生学”を担当する教授になったとき、先輩や教わった先生方のしていることを見よう見まねで担当科目をこなしてきたが、”衛生学”のよってきたる由来は知らなければならないと思った。

 そしてギリシャ「コス島への旅」。衛生の女神といわれるハイジエイヤの像を世界で始めてスナップした話。近代的疫学の原点であるジョン・スノ−の「ロンドンの名所」の話は前に書いた。

 「言葉・文字そしてその意味」を考えるようになって、そのよって来る所以が分かってくると、ようやく最近頭の中が自分では整理出来始めた感じがする。こんな頭の体操を毎日することが、まだ学問的にはその仕組みがよく分からないと思うのだが、頭とか精神とか心の健康にはよいことではないかと思いつつである。

  しかし毎日毎日新しい言葉が次々と新聞紙上に登場すると、その意味とかよって来る所以を知ろうとすると大変だ。

 その為に語源辞典とか新語辞書とかあるが、そのもとは、そのもとはと調べはじめると結構時間がかかる。

 「私の散歩道」は大学への図書館への道で、毎朝一つは解決しようと心がけている。”一日一解”である。

 いわく”ビック・バン”から”ヘッジファンド”。さかのぼれば聖書にたどりつく”クロ−ン”。”O157からベロ毒素のベロ”それぞれ由来があることが分かった。

 以前の”公害””善玉・悪玉”そして最近は”環境ホルモン”である。

 ”ホルモン”は医学的にみて一つの段階をふみ越えた概念であり、言葉であったと思うのだが、ジャ−ナリズムが書くのは「評論家の功罪」の功としてゆるせるとしても、科学者ともいえる教授がその言葉を名ずけたと自分で書いているのは私にはいただけない。

 最近医学会の講演演題にも登場するようになった”パラダイム”も、その名付け親のT.ク−ンが、自分が作った言葉をすでに数十と違った意味に用いていると書いているように、言葉はその言葉が生まれて以来生き物のように変わってゆく。でもそれでは”科学”は益々”わからなく”なってゆくに違いない。

 その中でいくつかのテ−マについて書き留めた。

 「クラ−クさんのこと」「軍医・医師のこと」「ウヰスキ−から失楽園」そして最近「ケツアツ」「カンケイ」など。

 「クラ−クさんのこと」は北大のクラ−ク像にちなんだ話で、例の「Boys be ambitious」の由来についての新知見。以前はウヰスキ−と言いっていたのに、今はウイスキ−。”失楽園”もすでに17世紀に書かれたことだとか、”禁断の木の実がなぜかりんごになっている”の出所は17世紀の英文学にさかのぼるのではないかということ。「ケツアツ」は秋田農村での血圧測定でのエピソ−ド。「カンケイ」は不適切な関係から疫学までの話。

 実はこれらのテ−マの内容はインタ−ネットでいつでも見られることになっていることを書いておかなくてはならない。

 弘前大学医学部衛生学教室業績集とは別に書きためた「衛生の旅」も6冊になった。そして7冊目を出すかどうか考えているところである。

 ”トップレス・ボトムレス次ぎの時代はペ−パレス”と書いてから大分時間がたったのだが、紙屑をふやすなという意見もある。

 そして昨年将来の”電子図書館”への納入を考えて”佐々木直亮のホ−ムペ−ジ”を開設したのである。「after5」に間借りではあるが。(http://www.roy.hi-ho.ne.jp/after5/naosuke.html)である

 上に書いた文書の中で「」内のもののいくつかはそれぞれホ−ムペ−ジでいつでも見られるようになっている題名でもある。

「リンク」「リンク」して行けば私の頭の中の「カンケイ」がわかって戴けるのではないかと書いた。

 久しぶりの原稿依頼で12枚はすこし重たかったが、このような機会を与えていただいたことに感謝したい。

 しかしこれがいつ「絶筆」になるかなという思いもある。いつ「ゼツコン」になってもいように、この原稿を送ったあと、(html)に変換し、(ftp)で(after5)の(naosuke.html)に入れておこうかと考えている。ファイル名はまだ2000年にならないから締め切りにあわせて(981231san)にでもしておこうか。

(産業医学ジャ−ナル 22(2),69−71,1999.2.)

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