DDT様々(さまさま)

 

「DDT様々」とは「DDT革命」をうけての標題である。感謝の意をこめてつけた。

今はかなりの年輩の方でないと分からなくなったDDTという名前も、第二次戦争で敗戦を迎えた年齢の者にとっては、忘れられない名前である。

DDTは1938年チバガイギ−社のミュ−ラ−によって殺虫効果が発見され、急性毒性がないことから世界中で広く使われた殺虫剤であるが、1970年になって、その残留毒性が問題になり、日本では同年使用禁止措置がとられたが。

「DDT革命」というのは、1986年岩波書店から発刊された本の題名である。

編訳者竹前栄治(たけまええいじ)で、編訳の本文は「DDT革命:占領期の医療福祉政策を回想する:C.F.サムス著」とあるように、サムスの回想録を翻訳編集した本である。

「医学研究者でもない私が、本書を刊行するに至ったのは、占領史の空白を埋めたいという一念からである。私がサムスに初めて会ったのは1973年春のことであった。そのとき本回想録のことを伺い、翻訳の内諾を得た」とあとがきに述べられている。

サムスとは医療・医学関係者にとってはマッカ−サ−とならんで占領後の記憶に残る名前で、GHQの医療福祉関係のトップにおられた方である。

連合軍最高司令部公衆衛生福祉局長クロフォ−ド・サムス准将の回想録「”Medics”1962,749pages」の一部(第四部:極東・日本)を訳出したものである。

「だだし、著者の了解を得て、事実の誤りや内容のつながりの不明瞭な箇所は適宜修正をするという編集を行った」とあるように、単なる訳本とはことなり、参考の資料も随所に付け加えられており、「編訳」の意味もそこにあると理解される。

また編訳について「用語などについて御懇切な御指導を賜った」多くの関係者の中に今は亡き慶應大外山敏夫教授の名前が見られたことも、また医学教育に関するところで「 この審議会の長は決断力に富んだ草間良男博士であった。彼は将来、新時代の医学教育の父として知られるようになるであろう」とあったことも、また草間先生の業績をいつかまとめたいと思っていると亡くなる前に言っておられた外山先生の言葉があったことが、この文を書かせた氣がする。

サムスの回想録の原文(英文)はスタンフォ−ド大学フ−バ−研究所に未公刊のまま所蔵されているとのことだが、その一部とはいえわれわれがそれに接することができるのは有り難いことである。

日本語版への序文の最初に書かれたことに、サムスの気持ちがあると読みとれた。

「読むに値する歴史とは、それが対象とされている時期に書かれたものだけである。すなわちその時期になされたこと、見られたことおよび当事者の口から語られたことを綴った歴史のみが価値があるとジョン・ラスキンは書いた。この重要な見方を私なりに言いかえてみると、その事象が起きたときには大変重要に思われたことも、時が経ちその時の感情の高ぶりが治まってみると、それほど重要でなくなる。これに引きかえ、その当時日常茶飯の事柄がそれほど重要でないと思われた決定でも、後の歴史に重大な影響を及ぼすようなこともあり得るということであろうか。まさにわれわれが日本で行った公衆衛生福祉分野における広範な政策についても、同様のことがいえる」と。

昭和47年に刊行した「衛生学開講25年誌」のあとがきに「毎日毎日が歴史である」と書いた気持ちと共通する考え方と思われた。

また「私は医学を学んでいた時も、また軍医の職務についてからも、人種・宗教・肌の色・敵味方の区別なく、誰にでも平等に医療をほどこすように、欧米の規範に沿って教育されてきた」と述べているように、「医師」「軍医」としての欧米の規範を持たれた方であったことが、日本にも幸いしたことではなかったかと思うのである。

「1945年8月30日未明、非常ベルが艦内に鳴り響いた」から始まる「日本進駐」からサムスが見聞き考えたことが細かく記載されている。

「わが司令艦スタ−ジョン号」に警報のベルが鳴り響いたことは、日本降伏のあとの上陸をひかえた艦内の人々の思いがつずられている。その中に「いまここにいる上級将校たちは、そのほとんどが1941年のフィリッピンやパ−ル・ハ−バ−での日本の裏切りや騙し討ちで、煮え湯を飲まされた人たちだ」と書いているところは、アメリカ人の一般的な感情なのであろう。9.11事件のあとにもパ−ル・ハ−バ−がでてきたように。

「関東平野には約17師団の日本軍が残っているといわれる。その上、また小型特殊潜航艇があり、数千のカミカゼ特攻隊員と飛行機を確保していると伝えられる日本本土に、いまわれわれは近づいているのだ」という緊張感の中の警報のベルであったのだ。

厚木飛行場についたマッカ−サ−とは別に「日本進駐」の実務を実行するべく、それぞれの専門家達をのせたスタ−ジョン号が東京湾内にゆっくりと入ってゆくところから、サムスが見聞きした状況が書かれていた。

丁度同じ頃佐世保海軍病院に勤務していた私は、佐世保軍港の陸地にいて、目の前にアメリカの軍艦が近づいてきたのを見ていたのである。一番の印象は軍艦同士が手旗信号でやりとりするのではなく、「大きな音声のラウドスピ−カ−」でやりとりしていたのには「これはかなわんな」と感じたのであった。看護婦に「青酸カリ」を渡したことなどもあったが、佐世保ではアメリカ兵による強姦などはなかったようだ。石黒中将と俵大佐と佐々木大尉で、海軍病院の「接収」に立ち会った。アメリカは建物は接収したが、中のものは全部そとへだした。  

「タラップが降ろされると・・・」「上陸はしても宜しいが、必ず二人一組で行動すること、着用武器は常に携行すること・・・」

「私は、同総司令部軍政局長のウイリアム・グリスト准将と一緒に上陸して、近くの税関ビルへ行ってみることにした。外へ出たところで、鉄カブトをかぶり、短剣を吊った日本の国家警察官二人と、第11空艇部隊のアメリカ兵一人とに出会ったが、彼らは桟橋の入口を警戒していた。この三人は死の街の廃墟の中にいる唯一の生き物であった」

「ビルの中を歩き廻った末、われわれは一階にある軍政局に指定された部屋をやっと見付けた。室内には日本製の古い机と椅子が、いくつか置いてあった。私は足置き付き椅子に座ってほっと一息ついた。私は日本でその後いくつかもの失敗をおかしたが、これが最初の失敗である。何秒もしないうちに、私の足首に”火”がついたのである。机の下の涼しい蔭に休んでいたイエカ属の蚊の群れが、足首に群がったのだ」

「日本人は近代的な虫の駆除法を取り入れていなかったので、私は日本にはDDTなどような駆除剤はないと思った。DDTは今度の戦争の後半期に、世界の至るところで米軍が用いていたが、マラリヤやハエの対策に非常に有効であった。まず、DDTとスプレ−器を海軍の友人から都合してもらねばならなかった」

戦前沖縄でマラリヤで全滅した村のあったことを思い出すが、戦後東京の青山墓地で水たまりのできるところなど皆土がかけられていたこともあった。われわれが紀州の田辺で引揚援護の仕事にたずさわったときには、DDT散布と発疹チフス予防のための注射が主な仕事の内容であった。DDTの入った立派な缶が記憶にある。受精卵から作られたといわれていたワクチンを20ccの注射器に入れてブスブス打ったのだ。誰一人として、ショックを起こしたことはなかったのは今思うと不思議な思い出である。中国から田辺に復員上陸した方々の中に、「アメリカ兵にDDTを浴びせかけられて屈辱感を味わった」とは後藤田正晴さんの記憶に残る印象であったとは、前に書いたことなのだけれど、DDTをかけたのは、日本での防疫に必要なことと判断し実施した日本の医官であった。中国からの引揚船にコレラ顔貌をした患者をみつけ、田辺には検疫の設備がないと上陸を前にした船を浦賀へ回操を判断した思い出もある。

「道を下って行くと、黒く塗られた煉瓦造りのビルがあった。探していた病院に間違いないと思った。玄関に入り、まず誰か人がいないかを確かめるために・・・」「床の上に患者用の畳が敷いてあるだけであった。この病院には患者はいなかった」「あちこち襖を開けてみたが、一部屋を除いてどれもからっぽであった。この部屋でわれわれは初めて人間に出会ったのであった。畳の上に三人の男が座って、茶を飲んでいた。彼等は明らかに怯えた目付きで、われわれが部屋に入ってくるのを見つめた。この時が、日本本土で日本人と私が話を交わした最初であった」

「二世の通訳を介しての会見で、私は生涯忘れられないほどのショックを受けた。それは、自分が教育され今まで信じてきた倫理が、日本人にとっては全く異質だったため、われわれを信用して貰えず、疑わしい目つきで見つめられたことであった」

「今、戦争は終った。降伏の調印は準備されていた。戦闘は終わったのである。私は警察病院のこの汚らしい部屋で、これからも多く経験するであろう苦い教訓の最初の一つを学んだのである。私は通訳を通して、この畳の上にうずくまっているいる三人の日本人たちが、われわれが彼らを処刑しに来たと思い込んでいるのを知った」

「私は通訳を通してこの三人の医者に、われわれがこの病院に来た目的は、患者や医療品の状況を知るためである、と説明した。またわれわれの使用に供する医薬品を奪い取るために来たのでもなく、日本に医療品がどの程度残っているか、足りない場合にはどの程度が必要であるかを調べにやって来たのだ、と伝えた。あなたち三人は、ここを去ろうと留まろうと、自由である。いずれにしても、危害を加えられることはない。戦争は終わったのである。・・・」

「私の言葉が通訳されると、そんなことはとても信じられないといった顔に変わった。私はあの顔つきを決して忘れないであろう」と。

この文の前段のところで「アメリカに帰国してから、自分の言ったことについて深く考えてみた」ことが書かれている。現代戦争における倫理についての反省である。

「現代の戦争のやり方を見てみると、現代の行動規範に関する自分の解釈が果たして正しかったかどうか、私は確信が持てなかった。たぶんわれわれは、自分でも氣づかずに、倫理規範を変えてしまったのかもしれない。空からの爆撃でも大破壊ができるようになってから、明らかにわれわれは、ヨ−ロッパや日本の都市に爆弾を投下することによって、非武装の男女子供、一般市民などを無差別に大量殺戮してきたではないか。もちろん、ドイツがロッテルダムを無法にも破壊したり、ロンドンを爆撃したのだから、その仕返しとしての目には目を、歯には歯をで報復してやったのであったまでだ。と正当化はできる。しかし、これから先も、わが国が自ら事を起こして、そうした無法行為をなすというようなことは、あり得ないし、あってはならないと思う。1945年8月のあの日、われわれが日本人を街路に並べておいて、マシンガンで撃ち殺そうなどと考えていなかったことは確かである。また、この哀れな三人の男たちが予想していたように、味方の傷病者のために建物がいるので、病院に踏み込んで患者の喉を切り裂いて始末してしまおうなどとは、もちろん考えてもいなかった」

サムスはサムスの考えにしたがて行動されたことが伺われる。それは日本にとって幸いしたのではないかが本文の纏めである。私はサムスにあったことはない。「DDT革命」のほんの一部についての感想文であるが。

戦後の日本の厚生省関係者の対応について私の見聞きしたことによると、性病診療所として機能させられていた保健所も日本において対策の必要であった結核対策が認められ、さらには「健康」に関係する対策が全て「新保健所法」に盛り込まれることになって、その蔭にサムスが関係したのであろう。講和条約後の昭和28年頃「公衆衛生たそがれ論」が世にささやかれたことはあったが。今日本が「平均寿命」の指標でみる健康水準が世界最高であることにはサムスに感謝されてもおかしくはないことがあったのではいか。

「ついでに言えば日本は占領期の六年間に、世界中で最も近代的な保健福祉法典を有するにいたったのである」とあった。

「家族と共に日本で過ごした日々は、私が医者として世界の他のいろいろな地域で勤務した長い日々の中でも、もっとも充実した楽しい期間であった」がサムスの回想録の結びの言葉であった。(20021120)

弘前市医師会報,, 38(2)通巻288号, 68-71, 平成15.4.15

もとへもどる