思うままに(その2)

 

 青森の野球場の建設が進んで遺跡が出てきたことを朝日新聞が一面トップで報道したことで(1994.7.16.夕刊)、がぜん有名になり注目された「三内丸山の遺跡」を見にいったことがあった。

 「街道をゆく」を連載中であった司馬遼太郎さんもかけつけ、「北のまほろば」の思いが深くなったと筆を走らせたのだが、私の見たときもまだ埋め立てる前で、その時の感慨は忘れられない。 

 私にとってはそれが「ことば・文字そしてその意味」を考えるきっかけになったのだがそのことを「思うままに」に書いた。今回はそのつづきである。

 「思うままに」は私の頭の中をめぐらす思いをつづる、記録しておくことだが、今コンピユウ−タを身近で利用できる世の中になると、それらの思いの「カンケイ」を「リンク・リンク」していけば、私の頭の中が分かろうというものだと書いた。以前「一日一考」といって、朝の散歩の中で考えたことを帰宅後入れて「衛生の旅Part5」を出したことがあったが、いわばそのつづきで、「身辺雑記」ともいうべきものである。

 

 平成11年10月9日連休の初日に当たる日の夜「三志会」に出席した。

「三志会」というのは、弘前大学医学部昭和34年卒のクラス会のことで、今年の夏8月に「卒業後40周年を迎えることになりました」との案内のはがきを城西で開業している傍島孝雄君から戴いていた。

 「出欠の返事を出したかどうか忘れてしまって」とは帷子先生の言葉だったが、私は何回も福田道隆君から念をおされていたし、図書館で品川先生とこのことで話しをしていたのでこの日が待ちどうしかった。品川先生は広島での学会へいって出られないといっていた。

 場所は川端の割烹福住で、10年ごとに同じ場所でとの幹事司会の福田君の話であった。

 招待され出席された先生方は臼淵・帷子・佐々木であった。案内された小さい部屋で最初の話題は名前と顔が一致しないということだった。まず受付の外見「年とった老人」は誰でしたかねということだった。あとで知ったのだが大病のあとだったとか。

 記念撮影は拍手で迎えられ、会がはじまった。

 席順座る場所は印刷されていた。顔と名前を比べながら。

 私にとっては教授になりたてで迎えた諸君でもあったし、5年前の秋田での会のとき、あのときは照井先生とご一緒であったし、今度も東京から同じ便でやってきた丸山英敏・菅原宮子君の顔もあって、顔と名前と、見慣れ、知り合っている方が多かった。

 臼淵先生はいつもと同じ先生らしい話のあと現在は散歩していますと言われた。帷子先生は何月何日教授会で諸君のことが話題になったと記憶の良いところを披露された。

 40周年おめでとう、よんで戴いて有り難うは皆喋ったが、私はどっかで聞いた言葉だとささきながら「生きていてよかった」と、それに付け加えて、笑点なみに「50周年の会にはまたよんで下さい」といったら拍手がきた。

 また「いつ死んでもおかしくない年になりましたが」と「今年講義をするようにいわれたので医学部のペ−ジに絶筆なたぬゼツコンの気持ちでホ−ムペ−ジをのせてもらいました。昔書いたもの−衛生学教室のアルバムからも−明日の健康を求めても−スキ−部の弘前だより−衛生の旅1-7もいれました。YahooJapanかGooで”直亮”か”naosuke”で検索するとでてきますとつけ加えた」コンピュウ−タをあつかっている人がどれだけいて、どれだけみてくれるかわからないが、「子供がアメリカへいったので、E-mailをやっています」としゃべっていた人がいたから、あとでのぞいてくれただろう。

 乾杯の音頭は今年も東奔西走の兵庫医大の下山孝教授であった。そして最新の研究のニュ−スをしゃべった。いずれ新聞紙上で報道されるようになるものだろうけれど、関連の会社の株でも今買っておけば値上がりするかとも思わせる話であった。それにしても息子が衛生の菅原和夫教授のもとで勉強していることも、その息子も教室で私にあっても親父のことは一言もしゃべらないのは親子とも面白いと思ったりした。

 菅原泰男君が「青森で第九を歌う会」に出ていたとき、指揮者の佐々木修から「今日はおやじがきているはずだといわれ、その親父とこの私がむすびつかなかったことを紹介してくれた。

 土井三乙君佐藤重行君の医師会長らしい話、山形明義君の病院長として、中村義弘・長沢一磨君らそれぞれ思い出の多い人の挨拶もあった。

  それにしても今回の皆の挨拶に「還暦を迎えました」「定年退官しました」「年金・年金」「年金が少ないので働いています」という話が多かったのには驚いた。皆そんな年なのだが、というのが率直な感想であった。

 秋田で開業している松浦邦夫君の山登り(ヒマラヤ・キリマンジェロ)の写真パネルの説明に皆聞き入っていた。お酒をつぎに来たとき「奥さんは」と一年下の彼女のことを聞いたら「ちょっと体調をくずして・・・」と一瞬見舞いの手紙を出そうかとの思いと、色々の思い出と「私も医師」との思いが交錯した。

 午後6時から8時半まで、2次会はそばで皆歩いていったが、私はハイヤ−で「すずろ」のお菓子のおみやげをもらって帰ってきた。楽しい会であった。

 

 東野修治先生から小包で「墨攻」(ぼくこう)という本(酒見賢一著、新潮文庫)が贈られてきた。

 「先生から小生が投稿した墨子の事を読まれ、国病へ鴎外の兼愛の書を見に行かれた話から、墨子関係の本を差し上げましょうとお約束しました」このことを覚えていて下さったのである。

 先生が投稿された文章は「兼愛の書」(月刊健康、2'95)であり、すぐそのあと弘前国立病院の院長応接室へ現物をみに行き、この際案内して戴いた津嶋恵輔院長から、40周年記念誌に掲載されていた泉幸雄名誉院長の回想記と津嶋院長の序文の中でこの「兼愛」にふれて書いておられることも教えて戴いたことがあった。

 私にとっては森林太郎が弘前へ立ち寄ったとき、(「兼愛」を書いたことは明らかであると、また森林太郎の「北遊記」について松木明知教授からご教示を受けたと東野先生が書いていたが)、どういう気持からこの書をしたためたのか知りたかったのだ。

 弘前によったのは1914年大正3年54歳の時、医務局長辞任の2年前であるからである。また「丸山博先生のこと」に書いたように「何故森林太郎は文学へ傾倒したか」という私なりの思いの背景があったからである。

 「墨子」の思想、「兼愛」の思想、それを陸軍軍医としての森林太郎が当時どんな気持ちで書いたのかが興味があったのだ。

 そんなところに「墨子の思想を最も巧く表現していると思っている小説(墨攻)をみつけましたので、大変遅ればせながらお贈りいたします」とのことであった。

 読み終えたあと、平成11年8月18日にご返事を差し上げた。

 「暑中お見舞い申しあげます 弘前はねぶたが終わっても秋風にはならず めずらしく真夏日がつづいています 

 戴いた「墨攻」をよみました

 森鴎外が なぜ弘前病院での書に 兼愛を選んだのかは まだわかりかねますが

小説「墨攻」はそれなりに 興味のあるものでした

 「1%の真実と 99%の想像力で書くものだ」と言っている小説家がいましたが  墨子をテ−マに書いた文章は面白く読ませていただきました

 とくに前に私の書いた「軍医・医師」との関係もあり 医学者としての自分とは何であったのかを 又考えさせられました

 本人のあとがきにあったように、「職人」の思想である「その職人のプライドというものを革離に投影させてみようと思って、ああいうキャラクタ−となった」とありましたが

 先生がいつだったか「整形は大工さん」という言葉が自分ではなく他人からいわれると気になるものだとの感想をお聞きしたことを思い出しました

 「卑賤の者」という言葉とその意味についても同様でした

 尚「解題」(安本博)にあったように、「この小説は、墨子や墨家集団について明らかにされている学問的成果にもとづく歴史的事実に関する部分と作者の虚構部分との相互循環で展開されている」この小説はそれなりに興味のあるものでした

 このような機会を与えて戴いて有り難うございました

 最近書いたものとご本送りいたします」

 すぐ東野先生からご返事がきた。

 「墨攻一冊と先生の随筆拝見しました 実は本の方は 贈呈申しあげたのでしたが その事をはっきり書かなかったので返送のお手数をお掛けして失礼しました・・・・墨守が拡大されて墨攻になるのも 正義を唱える者の犯してしまう世の常なのでしょうか 小生 今は所謂医の領域の仕事は一切離れ 道楽的感覚で古文書の読み方を習って居ます

・・」とあった。

        

 先日(平成11年9月25日)弘前大学医学部コミュニテイ−センタ−を会場に第64回日本民族衛生学会総会が開催された。私が定年前の昭和59年に第49回の総会を開催したことがあったが、それから早や15年目である。

 日本民族衛生学会はあまり大きい学会ではないが、日本医学会の中では古い学会でそれなりに伝統がある。

 菅原和夫教授の会長講演(運動と活性酸素)で、彼が「生体防衛」としての「好中球のどん食能」に興味をもった昔の話から今日までの成果をまとめて聞けたことはよかった。あまり知られてはいないようだが、研究に必要な測定器具(USO-800うそ800から現在の改良品まで)を開発したことは面白いし重要だと聞かせて戴いた。

 弘大看板の松木明知教授の講演「歩兵五連隊八甲田雪中行軍の謎−とくに行軍の責任者山口少佐の死因を巡って」は先に弘前で開催された「日本レ−ザ−治療学会」(会長白戸千之博士)の中での講演を「バ−ジョンアップ」(遠藤正彦医学部長の挨拶から)したもので、あらためて興味があった。

 今もてもての大阪大森本兼曩教授の「ライフスタイルと健康」、(いつもテレビで見ている隣のおじさん)と座長の中路重之助教授から紹介されたミスタ−三内丸山の岡田康博三内丸山対策室長の「豊かなる縄文時代−自然・もの・こころ」はそれぞれ面白かったが、私の記憶に残った言葉としては、岡田さんの「考古学 地下に真実 地上にロマン」であった。

 キャッスルで開かれた懇親会での目玉は、若手津軽しゃみせんもよかったが、菅原教授注文の「衛生の女神ハイジエイヤ」の像が披露されたことだ。

 衛生の教授だから「衛生の女神」に惹かれるのは当然である。私もかつて「コス島への旅」で彼女の像を世界で初めてスナップというよりヌスミ撮りした話は前に書いたことがあった。先日学会の途上コス島へ行かれた菅原教授が(この時の紀行記は医学部の衛生のホ−ムペ−ジに中路君が書いている)、この像を依頼された気持ちはなっとくされる。私も30年ぶりに再会した彼女の前で竹島さんに写真をとってもらい、それも今はやりのデジカメで、 jpgに入れて貰った。(991010omoi)

(弘前市医師会報,268,68−71,平成11.12.15.)

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