初仕事

 

 新年の挨拶に書いたように、「八十の足の痛み」は相変わらず、「どうにか年をこし」である。「痛み」という「自覚症状」は他人には分からず、「文学的才能」はないと考えている自分には、これをどう表現したらよいか迷うばかりだが、「どうにか生きています」がきまり文句になってしまった。

 小林太刀夫先生が前日までお元気で散歩されていたのにお亡くなりになり、東大第4内科同窓会から「追悼集」を出すので発起人とのお誘いのご案内を受けた。先生については「日循協」誕生以来数々の思い出はあるものの、「私としてはもう出る幕ではないと思いますが」と返事を出したが、今日「小林先生の御奥様から、これ以上のご迷惑をお掛けするのは恐縮とのこと・・・」と発行中止の連絡の手紙があった。先生のお人柄とご家族のことが偲ばれることであった。

 ご不幸といえば板垣正太郎先生が年末に亡くなられた。先生にはスキ−からゴルフまた三田会(歯科出でありながら戦後特別クラスで慶應義塾大学医学部を卒業された)など数々の思い出がある先生で惜しい方を送ったが、葬式にも出ず「義理」を欠いてしまった。

 年末修から今はやりのDVDレコ−ダ−が贈られてきた。DVDとは何の訳なのかとか、新しい言葉例えば「ファイナライズする」とか、「ぼけるひまなし」といったところだが、昔のテ−プ(ベ−タとVHS)のなかの主なTV・講演を移し替えた。これであと百年は記録が残せることになったが。数年前大学へいって「面白ゼミナ−ル」のテ−プをもっていって私のHPに動画に入れたことを思い出すが、随分便利にまた記憶容量が大きくなったことを実感した。

 それぞれ思い出のあるものだが、その内記録一覧表を残しておこうかと考えている。

 今度教授になった中路君からめずらしく電話があった。久しぶりに電話に出て、元気ですか!と声をかけたが、菅原和夫教授の退官記念誌を出したいので何が書いて下さらないでしょうかということだった。となると何か書かなくてはならないと思った。今年の初仕事である。(20050120)

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