世界塩の旅

 

 「世界塩の旅」という題で前に書いたり話をしたことがある。

日本医事新報昭57,弘大キャンパスジャ−ナル昭58,北五医師会昭62)

自分自身でスナップしたり見聞きしたことを主に、コレクションのスライドを上映して。

 この「世界塩の旅」はその映像の記録を残しておこうとするものである。全部とはいかないにしても若干の糸口になろうかと纏めたものである。

 「食塩と健康」(第一出版)には文を書き文献を示したが、その中では示されなかった「image」を記録としてここに纏めた。私の撮影したもののほか、他の方の作品の「引用」もあるが、それぞれ出所があり、その総てが記載されていないことのお許しを願う。

 日本の特に東北地方の脳卒中や高血圧の予防を目標に疫学的研究を展開し、「食塩摂取」の実情にふれ、検討でき、食塩過剰摂取の疾病発生論的意義を考えていた。幸い文部省の在外研究の機会に恵まれ、1965年から1966年にかけてアメリカのミネソタ大学に滞在することができた。この時世界的規模で食塩摂取と各種人口集団の血圧の水準と分布についての資料を検討し両者の関連についての考え方についての「作業仮説」をセミナ−で発表した。

そのあとヨ−ロッパにも回る経験をもつことができた。

その後数回のアメリカ・ヨ−ロッパへの学会出席の途次見聞を広めることができた。

 1970年ロンドンでの第6回世界心臓学会で

「Causative factor in hypertension」の円卓会議(round-table-session)で

私なりの「Salt Factor」についての考え方を述べる機会が与えられた。

Civilization is saltization」はその折りのテレビインタ−ビュウ−の時口について出た言葉であった。

ロンドンにて

  「しかし私にはロンドン塔(The Tower)の宝物殿に入ったときの、そこにあるものをみたときの、おどろき、感激は忘れられない。

それは代々伝わる即位用の王冠や王笏ではない。大きなダイヤモンドが入った王冠ではない。

それらの宝物の一番上におかれていた金色にかがやく”塩の入れ物”(Salt Cellar)であったのだ。説明の文面をよくよんでいくうちに”Salt”という字が私の目にとびこんできたときには、自分の目を疑った」

ロンドンの名所から

The Salt Cellar

アメリカにて

アメリカにいた富永祐民君からワシントンの家で食塩の倉庫を見てきた手紙を戴いていたので、昭和61年第10回世界心臓病学会がワシントンであったとき、観光船にのって見に行った。

 

昔の倉庫に”Salthouse”があった。

 

博物館には”Silver Salt Stand””Salt Dish””Salt Spoon”がかざられていた。

  

久米清治さんをサクラメントへ訪ねたときも 塩の倉庫や昔の食事のメニュ−が歴史館にあった。

 

アメリカは200年前ヨ−ロッパからの移民によって発展していった国であったので、食塩は現地で求めるというより、船によって本国から運ばれたようにみえた。

”Salt Lake City”は文字通り”塩の湖”であった。

モルモン教会・オルガンなど見たあと、湖へ向かった。皆湖の水の味見をしていた。塩の結晶の資料があった。ここでは浮き袋がなくても浮きますという写真のついた「塩」のお土産(25セント)を買った。

  

 

Time誌(March15,1982)が「塩」の特集をやった。 

日米の比較など、ミネソタで一緒だったHenryBlackburnらがコメントしていた。

 題は「塩:新しい悪者?」であった。

Salt and Pepper

国際線にのって食事がでると きまって ”Salt and Pepper”がついてきた。

乗るたびに 講義に使おうと コレクションした 。 

日航ではそのほかに醤油”soy sauce”がついていた。

”salt””pepper”と書いてあるのはすぐ分かるが アナが一つ三つと開いているだけのもあった。 三つのほうが食塩であった。 色の違うのは白は塩 茶はコショウであった。

 

ソ連の飛行機にのったら10年前と同じものであった。 またどのホテルへいっても同じ入れ物であった。

コペンハ−ゲンの例の人魚のある海岸を歩いているときだったか、お土産屋さんの店先に木製の入れ物があった。裏側をみたら”Salt”とあった。

 

ウイ−ンの美術館に塩にちなんだ置物があるとテレビで放映された。

 

noーsalt culture

Lowenstainの北ブラジルのアマゾン地帯に住む人々の血圧に関する報告(Lancet,1,389,1961.)を見ていたので、食塩との関係で私の作業仮説の例に入れていたが、南米には行く機会はなかった。

1975年になってOliverらによって”Yanomama Indian”(綴りは色々で、読み方も色々であり、わが国ではヤノマモ・ヤノママ・ヤノマミなどといわれている)の”no-salt”cultureの報告がでた。学会報告もあり、テレビにも紹介されることになった。 

  

  

アフリカに子供をつれて行って人類生態学の研究をされていた田中二郎先生(砂漠の狩人:中央新書,1978.)が弘前大学におられた頃、「濾紙法」で尿中のNa、Kを調べ報告(日本医事新報,3269,,25-27,昭60)したことがあった。このブシュマンの対象も”no-salt”cultureにある人々であった。

 

東大の鈴木継美・大塚柳太郎先生らのパプア・ニュ−ギニヤにおlける人類生態学研究に協力して、食塩摂取について考察する機会があった。

竹森幸一君らの「濾紙法」「毛髪」の検討もできた。

私は現地調査には参加出来なかったが、論文報告またTVなどニュ−ギニヤの写真など多く勉強することができた。本多勝一氏の紀行記など

 

塩の花があり、それを焼いて塩を造り、天井につるしているとあった。

   

 

テレビの世界ふしぎ発見にも「塩の問題」がでたことがあった。

ダニ族の例、ラニ族に繁栄をもたらしたものは何かであった。

この時の説明は「塩水の泉」であった。

パプアニュ−ギニヤの「塩」の成分は報告によると、NaClよりKClが主であった。

  

    

2002年10月世界不思議発見のテレビで、パプアニュ−ギニヤのワナカパリ村アンガ族で「いも」に「塩」をかけて食べているところ、草をもやしてその灰から塩を造っているところが放映されていた

生肉を食べる人」といわれたエスキモ−(差別語をさけて最近はイヌイットといわれる)はド−ル先生の論文には食塩5グラム以下と報告され、本多勝一氏の紀行記にも 「味付けのない食事への試練」が書かれていた。

住の温度環境は日本の東北地方より良いと思われるが、天然の冷蔵庫の中に生活するエスキモ−の人々は食物を「塩蔵」する必要はなかった。

   

動物が人間の尿をあさっている風景が放映されたことがあった。

 

オ−ストラリヤの大陸に住む原住民も”no-salt”であるといわれる。

論文もあり、オ−ストラリヤ放送の番組制作で食塩の取材に弘前へきたこともあった。

  

塩のある世界

歴史を記載したヘロドトスについてのテレビ番組にエジプトのデルタ地帯の「塩湖」が放映された。「ナトリウム」の語源がこの湖の名前に由来するという説明であった。

 

聖書にみる塩」に書いたように、旧約聖書の世界では、「塩の海」にかかわる記載が多い。

 

地球を空からみると「死海」のように塩に覆われて白い湖にみえるところがあるようである。

南米・オ−ストラリヤ・中国・モンゴルなどなど

   

 

 

こういうところでは塩をただかき集めればよい。

 

 

  

  

サハラ砂漠の塩

  

 

  

2004年2月テ世界不思議発見のテレビでサハラ砂漠に「塩の湖」があると放映されていた

  

2003年8月テレビ「極限への旅」(Going to extreams)「世界一のあつさエチオピア」の中で、「塩」をとりにらくだの旅が放映された。

  

  

世界まるごとHowMuchの番組に塩の問題が出たことがたった。

  

製塩法は世界各地で人間の知恵によって色々考えられてきた。

塩は塩蔵に用いられた歴史がある。

南米での塩づくりのテレビの放映があった。

  

  

  

南米インカ帝国の山に段々畑があって何の食料をつくっているかという問題がでた。正解は「塩」で、山の岩塩をとかした水を下へ下へと濃くして塩をつくるのであると解説があった。

  

南米アンデスの不思議な湖の放映(20041204)があった

  

   

  

  

 

南米チリ−(TV20060121)のアンデスにラグ−ナ・ベルゲ(緑の湖)があり

そこには「塩の結晶」がみられたと

  

  

南米ボリビヤの地下資源のTV(20060127)で塩の湖(クピ−ナ塩湖)で(硼酸?工場)があり

(ウユニ塩湖)の下に「リチウム資源」があると

  

  

ザルツブルグは文字通り塩の城である。

鉱山から岩塩を堀り、船で運び馬で運びヨ−ロッパに塩の道ができた。リ−ビッヒには14世紀ハンザ時代の歴史的な塩の門があり、北海に面してニシンの塩蔵の倉庫がならんだ。

  

 

シュ−ベルト五重奏曲「ます」をバックのヨ−ロッパ音楽紀行に「世界最古」の岩塩採掘との放映があった

「紀元前3000年ころから岩塩が採掘されてきた」「19世紀末まで木製の小舟が塩の運搬や交通の手段のため今も湖岸の家々に船蔵がみられる」

「街と世界最古を誇る塩抗とをつなぐケブルカ−」

「現在も操業中で観光客は1719年に開かれたこの坑道から内部を見学することができる」「塩づくりはまず岩塩を含む岩に空洞を堀りおよそ3ケ月間水を満たしておく」「塩分が溶けだした水はパイプラインで平地部の工場へ送られそこで塩が精製される」

「ハルシュタットの卓越した岩塩採掘の技術はこの地方に優れた文化を生み出した」

世界遺産のTVでザルツブルグが放映(20041202)されたとき、岩塩の採掘によってハプスベルグ家の繁栄をささえたといっていた。

古代エジプトの歴史の中で失われた王妃ネフェルテイテイの像が、ベルリンの博物館にある物語が放映(2005.4.23)された中で、ドイツのメルガ−ズ岩塩抗に保存されていたとか

  

音楽をやっている修をザルツブルグにたずねた時、朝飯に近くのバン屋さんから一揃えかってきてもらった。塩をまぶしたものもあった。

バタ−も無塩バタ−が主で、塩添加バタ−は値段も高かった。

テレビで塩の宮殿のクイズをやっていた。

  

  

今は観光の場所になっている。

私もドイツのベルヒテスガ−デンの岩塩抗を見に行った。

  

   

ヘルシンンキにて

Prof.PekkaPuskaの部屋に小学生の「絵」が掲げられていた。

「塩の小魚:死刑」「お酒のんで肥満」「りんご:私をたべて」とあった。

港の市場にその小魚「MUIKKU」を見に行った。

フランスでは塩の税はすべての税のうちでも最も憎まれ、フランス革命の大きな原因になった。

 

そのフランスの北西部の町ゲランドには、「いまだに前世紀の職人的手法で生産し続けている唯一の塩田」がある。伝統的な天日塩である。

  

料理人三国清三さんの世界わが心の旅でフランス・ゲラントでの塩の放映があった。500年以上つづいた塩田。塩は”太陽と風の子供”という。塩草で育った羊の肉にふりかけた塩。

  

  

  

世界不思議発見のTVでフランス・ブルタ−ニュ地方に古代からの塩田があるとの放映があった。「ゲランデの塩」といっていた。

   

  

BS1の世界ニュ−ス(2005.4.18)でフランス・ベルギ−でパンの添加食塩を減らしていると

BS1の世界ニュ−ス(2005.9.2)でフランス南部の塩田が「観光の名所」になっていると

    

 

世界不思議発見TV(20050827)(クロアチヤ)で中世のドウブロブニクの特産品とての「ストン塩田」の放映があった

    

       

インドの独立運動はイギリスの塩の独占に対しての”塩の行進”であった。

 

カナダのNewfoundlandでは魚を塩づけにしている食生活であったが、”胃癌”と”脳卒中”が目立つという報告があった。

宇宙飛行をやって帰ってきた秋山さんは、ロシア風にパンと塩で迎えられた。

アラルは最近様子が変わったという。河の流れが変わって塩がでてきた。

  

ハワイにも塩田があった。

中国の説文に記載のある楼蘭王国の近くに「ロプノ−ル」(塩の湖)があったが、今は砂漠である。

  

  

中国には塩の井戸また塩田があるという。

  

 

土地が乾燥すると地面に塩がでてきた。

 

漢書の食貨志には塩は酒をのむときの肴の大将であるとあった、酒は百薬の長の前に。

塩という字を分析すれば

 

中国では”説文”に味噌・醤油・魚醤に関する記述があり、塩が用いられるようになったことが分かる。

  

塩の取引から”商”ができたとあった。

 

  

中国唐西安の法門寺仏塔の地下から茶具と一緒に銀製の塩台があったという

シルクロ−ド第11集天山北路の「七角井(しちかくい)塩化作業場」の放映があった。夏の仕事のあと楽しみがある(先憂後楽)とあった。

     

「NHKYV秘境シルクロ−ド中国しんきょうウイグル自治区」にみられた「白い湖」で

塩であった

太陽で水が干上がって 魚がミイラのようになっていた

  

 

「シルクロ−ド・敦煌」(20050619)の周辺には「塩湖(えんこ)」があるという

 

 

南では”魚醤””みそ”に食塩が用いられるようになった。

 

  

ベトナムの謎の海洋王国チャンバのTVで 海からのイワシに塩を加えつぼに蓄えて

ニョク・マムという調味料が造られているという放映があった

    

ラオス・ジヤ−ル(つぼ)高原の不思議のTV(20060211)で塩の交易で栄えた

塩は何から造られるのか−答は(井戸)であったと

 

 

 

時雨音羽は大蔵省勤務時代「塩と民族」をまとめた。日本専売公社発行の「塩の話あれこれ」もあった。

そして日本の塩の旅は・・・

弘前に住むようになって東北地方の人々の生活で見たものは・・・・

大根乾し、たくわん、漬け物樽、味噌の樽、大豆をにるカマ、南部のたまみそ、しょっつるの樽、いずれも食塩による加工品であった。

  

  

  

お皿山盛りの漬け物(ガッコ)をお茶うけに食べていた

われわれは24時間の蓄尿をし分析にまわし、濾紙法もやった。

 

東北地方を訪問したキャネル夫人は秋田の市場をみて”everything salt”といった。

 

全国のみそ品評会に出た”みそ”の食塩分析値の資料を戴いた当時農林省におられた海老名さんを久しぶりでテレビでみた。

「わわれの分析結果が医学の方で利用されるとは全く想像しなかった」と当時のはがきにあった。

  

わが国では岩塩がなかったから、海水からの製塩によった。製塩土器をはじめてみたのは多賀城にある東北歴史博物館であった。

  

瀬戸内海の直島の近くの島で日本最古の製塩の場所があったという新聞記事をみて現地へいったことがあった。

 

鹽竈には塩の神をまつる神社があった。

 

能登の塩田は有名である。

  

      

冬の味覚加賀能登の旅で塩を使った「イカ・イワシ・サバ・カキ」を用いた魚醤があった。

忠臣蔵で有名な赤穂は「塩」の名所であり、塩業資料館があり塩の公園があった。

   

 製塩土器

  

謡曲に「塩」がどれだけ出てくるか父に調べてもらったことがあった。

「藻塩たく」の風景が資料にあった。

 

古い「醤油」の資料の版画があった。

戦争用の城には「塩の蔵」があった。

また「木かん」の「塩の札」も博物館にあった。

”無塩”(ぶえん)の魚を山奥のお殿様に運んだという故事を博物館でみたこともあった。

  

 

松本には上杉武田の故事にならったお祭りがあるとテレビにあった。

   

山国の家の塀には塩を埋め込んでいると説明されていた。

 

瀬戸内海にはちょと前まで「塩田」があった。空から写真をとってもらった。

沖縄の知念君の案内で昔海岸で「塩田」があり、今「とみしろ製塩」となっているところへの行った。

中国から「原塩」「マグネシウム塩」を輸入して「塩」をにつめていた。

 

   

平成9年になって塩の自由化がはじまった 沖縄でも製塩する人がふえた その中に新しい方法を考えた方がいた 海水の水分を飛ばして結晶を得る方法であった ミネラル分が多く 味がよいと 放映された

     

伯方(はかた)の塩は料理に良いという番組があった。

テレビドラマ「澪つくし」の背景には野田醤油の歴史がある。

伊勢には伝統的な行事があり、始めての放映であると説明されていた。

  

  

ヤマトタケルが口に含んで「神のもと」といったという伝説が愛知県萱津神社に語られているという放映(2004.4.10)あった。とれた野菜をかめに入れ海からとれた塩で漬けた(漬け物)と。

  

皇太子・雅子様の儀式にも塩はあった。

 

大相撲伝統の中に土俵の清めの塩が埋められ 塩まきが行われている

塩は生活と共にあり全国に塩の道ができ民俗学のかっこうのテ−マになり多くの研究があるようである。

  

  

 

一方北海道のアイヌは塩とはあまり関係がなっかたようだ。

札幌の植物園の中にあったアイヌ資料館で小さい塩の入れ物をみた。

函館の博物館で魚と野菜の塩汁の三平汁用の独特の形をもった「三平皿」をみた。

スキ−場で塩をまいていた。

 

ねりものには塩がつきものである。

全国うまいもの「えびせん」のTVで、原料のえびに「塩」「砂糖」「でんぷん」をいれまぜて、130度で焼いていた。

  

「パンは塩を運ぶ船」という言葉があるが「玄米パン」のテレビで「塩」を加えるところがあった

NHKプロジェクトX(20041214)でオリンピックの料理人の話の中で

一握りの塩が料理のきめてであったという

2005年1月の東奧日報の記事に、青森県小泊村青岩地区に近世の塩釜の遺溝が発見されたと。

高校講座(2005.5.4)理科綜合で「塩と砂糖どう違うの?」の「イオンと分子の違い」の放映があった。その中で沖縄での製塩が紹介されていた。沖の海水を、天日で自然乾燥して製塩するのと、他に80度で器械製塩もしていた。

  

  

  

 

高校講座(2005.10.3)で海洋深層水での製塩の話があった

  

  

        

  

「りんごと健康」の表紙のデザインがよかったので、

「食塩と健康」の表紙には塩の結晶を用いてもらった。

塩の広告も時代とともに姿をけすであろう。

 

日本における食塩摂取の地域差を説明するために”みそ”(miso-soupe)の摂取量(一日における摂取回数)があると考えたのであるが、

30年前秋田県西目村で撮ったこのみその樽のカラ−スライドは、世界を回った。

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