こんどの戦争では多くの友人を失った。その中の一人森下孝(たかし)君のことを書いておこう。
こんどといっても私は日清・日露の戦争のことは知らない。昭和6年小学生時代の満州事変から昭和16年大学生時代に始まり昭和20年終戦までの間の戦争のことである。この間に私なりの実体験をもった。実体験のない人の物語がいろいろ語られているが私にはいただけない。
鹿児島知覧基地から飛び立った特攻兵が「ホタル」となって帰ってくると言ったという話は事実であろう。だがそれを題材に作った映画は別である。城山三郎さんが特攻兵として訓練を受けたことは事実であろうが、料理屋の鴨居の刀の傷についての感想は城山さんの作家としての作であろう。大阪の緒方洪庵の適塾の2階にある柱の傷、長崎の丸山にある料理屋にある坂本龍馬がつけたといわれる刀の傷も何なのか、斬りつけた人に聞いて見なければ分からない。
満州事変が始まった当時慶應義塾の幼稚舎にいた自分にとっては、従来の修学旅行が無くなったという印象が強い。神戸から船にのって別府へ、そして中津の福沢先生の生まれた家へという修学旅行が「世の中は非常時になったから」という理由で取りやめになり、何となく残念だったという記憶しかない。
その代わりに塩原温泉への旅行になり、記念写真がある。
このとき泊まった宿での出し物として「ジェスチャ−」があった。
出された問題とそれをやる役が私に当たった記憶である。
問題は「インスピレ−ション」であり、出題者が森下君であった記憶である。
なんと「おませ」な子供達であったことだろう。
最近テレビでみる日立のCMに「Inspire the Next」というのがある。
何を云おうとしているのかよく分からないが、inspire は語源的に inspiration と同じである。これをどのようにジェスチャ−で現したらよいか迷った記憶である。この問題は当たらなかったが。
図画の時間、担任は椿貞雄先生であった。後日先生は画壇で活躍されたと聞いた。
油絵と水彩の組みに分かれたが、私は水彩組、森下君は油絵組であった。
父の苦労は知らず、わが家は貧乏、森下君の家は裕福というのが私の印象であった。
卒業時兄がもらった「金巻名誉録」を森下君がもらたのに自分はもらえなかったことに泣いた。私の成績はそれなりによかったが同点であったと聞かされた。そして自分の絵の才能の無さはたなにあげて、椿先生の採点が低かったことを恨んだ。よきライバルであったのであろう。
中学の普通部は組が分かれて森下君の記憶はないが、2.26事件があり、満州での「リットン卿」報告とか、松岡外相の「国際連盟」脱退の姿などテレビに繰り返される度に記憶が反復する。
大学生になって森下君は経済に私は医学部へ進んだ。
ドイツ語を学んだからか、ドイツ大使館へ行ったことがあった。大きな体、すばらしく立派に見えた軍服姿、これはかなわないなといったことが記憶にある。
幼稚舎卒業以来「飛鳥会」と名前をつけたB組クラス会は毎年のようにやった。その度に集合写真を撮っている。
大学生になったあとであったが、待望の「飛鳥」を刊行するときに森下君らと一緒にやった。
幼稚舎時代担任の久保田武男先生は中国の戦地にあり、その発刊の言葉を森下君が書いている。
「ペンを取る前に、先ず遠く戦地に活躍して居られる久保田先生の御健康を祝する。難産ではあったが、到々生れ出た”飛鳥”である。僕等の喜びはさることながら、先生の御満足も如何ばかりであろう。此の事については諸兄の御援助に、深く感謝しなければならない」と。
経済に進んだ森下君は私より一年早く卒業し陸軍に入った。綱町の家の縁側で千浦一郎君(1,2)と三人でセルフタイマ−で撮った写真があった。
私が昭和18年9月卒業を前に大阪京都への親戚まわりをしたが、その帰途豊橋駅で下車して、浜松の第二陸軍予備士官学校にいた森下君に面会に行ったことが記憶にある。その時のことが日記にあった。
「八月十七日 森下君訪問す 明るき生活に共感あり」と。
それが森下君とあった最後であった。
そのあと森下君は「中野学校」に入り 特殊任務に付いたと風の便りに聞いた。
戦後焼け野原の東京へ戻り、三光町の坂の途中にあった森下君の家を訪ねたとき、焼けた家のすみから兄さんが出てきて「フィリッピンへ行ったはずだけど まだ帰らない」の答えが返ってきた。
フィリッピンには行ったことはないけれど、「小野田元陸軍少尉」の話を聞くと、いつも森下君のことを思い出す。
話しは急に飛ぶようだが、高血圧の成因を色々考えていたとき、その一つに、小さいときの「すりこみ」理論にぶつかったことがあったことを思い出した。