「青森」というと「りんご」をイメ−ジする方が多いと思うが、その青森に「青森りんご勲章」というのがあって、私に平成14年2月18日授与したいと知事から書面が入った。
「県ではりんごを通じた活動により、本県の産業経済の発展に寄与された方々、または本県の名誉を高揚された方々の功績を讃えるため」とあった。
もっとも前もって「りんご果樹課」から先生が選考されたのですが、お受け戴けるかどうかと電話があったが。
誰が考え、誰がどのように選考するのかは知らないが、新聞報道によると第1回は戦後直後のヒット曲「りんごの唄」の歌手の並木路子さんら三個人と一団体、第2回は「りんご園の少女」に主演し「りんご追分」を歌った美空ひばりさんであった。
今回は選考の過程で「健康」が入っていて、私の名前がでたそうだ。
昭和29年に弘前大学医学部に助教授として赴任し、31年に教授に昇任、衛生学を担当することになった自分には、県内唯一の「健康」を目指す講座として、それなりに気負いがあったと今思う。
土地では「あだり」と言っていた「脳溢血」の、それも若い働き盛りの人々の死亡をなんとか「予防」する手だてがないものかと、人々の生活をみつめ「疫学的研究」を展開した。
「食塩過剰摂取の問題」と「りんごの高血圧予防効果」の手がかりをえて昭和33年に日本衛生学会に発表したことが、新聞紙上に「りんごの高血圧予防効果」として、大きく取り上げられたが、停年まで「追跡的疫学研究」の成果を報告してきた。
「健康」が選考理由とあれば、「勲章」はどうあれお受けした方がよいと考えたのである。
ヨ−ロッパには古くからあり、ギリシャ神話、聖書にも登場する「りんご」が、アメリカ建国のかげにあり、この津軽の人々が明治維新のあと生き延びてきたのには「りんご」があり、そこに青森医専、弘前医科大学、弘前大学医学部と五十数年、「りんごと健康」の研究がされたのは、歴史的必然性だと書いたことがあるが、「りんご」がBF(ベネフィット・ファクタ−)であると考える研究をやってきた。
「表彰状」には「あなたはりんごと健康に関する研究者としてりんごの高血圧予防効果を世界に先駆けて実証し国内外から高く評価されるなどりんごの健康科学の基礎をつくり青森りんごの発展に貢献した功績はまことに顕著なものがあります」とあった。
以上ここまで書いて、次ぎの日本医事新報の緑陰随筆へ投稿しようかと考えた。「私のツエは護身用」は次ぎにまわして。
国からの勲章のときには、「秋の嵐」と書いたが、それほどではなかったが、2月12日にマスコミ解禁まで、内密という話であったが、丁度冬季オリンピックの記事が紙面をにぎわしていた時だった。13日の新聞には小さく報道されていた。
それでも、Eメ−ル・祝電・手紙・はがき・お花・お菓子と久しぶりに有り難いことであった。
電話での応対には家内が出てくれたが、「奥様は青森への会にでられるのですか」という問いかけが多かったとのことであった。
「国からの時も、今度も、あなた一人でいっていらっしゃい」「ストックホルムなら行ってもいいけど」がいつもの冗談の答えである。
「”疫学”ではないでしょう。疫学は100年前には無かったから」がこれまた冗談の受け答えである。
冬の青森は何がおこるかわからない。当日の朝の汽車でいっても間に合うはずだが、前日に行ってホテル青森に宿泊することにした。フロントで予約を確かめたら「りんご果樹課」で支払いを持つことになっているということだった。課の好意と思われるが「聞いていません、連絡ありません」と答えたが、ここは「けじめ」である。結局カ−ドで支払った。
時間がきて、受付へ行ったら、印鑑で若干の支払いがあった。
「国では旅費も出さなくて」と某先輩にお祝いを述べた時に返ってきた言葉を思い出した。
書面に「規定による旅費及び日当を」とあった。あとで見たらあまりにも「常識」はずれの金額だったので、確かめたら、最近経理がうるさくなって・・・という答えだった。おまけに当日の終了後の昼飯がでたので、その分を差し引いているという事だった。その昼飯はホテルの主としてリンゴをあしらったものであった。
朝観光業者の会に八戸へ行っていた知事が「お着きになりました」と表彰式は始まった。知事も忙しいものだ。先日もりんご販売に九州まで足をのばしたということを知っていた。
今回は個人は私のほかに板柳のりんごふるさとセンタ−を造った故竹浪町長さんであった。故人が勲章をもらうのも特徴であり、息子さんと娘さんが写真をもって出席していた。団体としてはりんご生産者団体のりんご協会。
代表の挨拶をと事前に私に話はあったが、団体表彰のりんご協会の方へお願いして下さいと話しておいたが、木村徳英さんは良い挨拶をされたと思う。翌日の新聞の記事になっていた。
記念撮影のとき「知事さん前へ」と中央の席を指したが、後ろに立たれた。固い握手をして知事は次ぎの予定へ向かわれた。
係りの者が椅子を並べたが、誰もすわらなかった。聞かれたら何と答えるべきか心づもりはしていたが、「資料は前もって渡してありますから」ということであったが、もはや「ニュ−ス・バリュウ」のない話しになってしまたのであろう。昔菊池寛氏が芥川賞を創ったとき新聞記者があつまらないことに腹をたてたとか文春で読んだことを思い出した。前「りんご課」の知恵ある仕掛け人がどう思っているかとも思った。
その日のTVにはちょっと出ただけで、翌日の新聞記事も東奥日報・陸奥新報だけだったようである。
青森りんご勲章は純銀製で、五弁のりんごの花びらの上部に、真っ赤なりんごがたわわに実った樹を図案化したもで、図案作成者は青森県新産業創造室長九戸眞樹(くのへまき)さんとのことであった。
会食には、審査員の方々が陪食に出ておられたと思う。誰がどういう役目をしたのかは分からずじまいだった。昔弘前の鍛冶町や教室であった記者のTさんが青森支社長になってでていた。
顔ぶれをみてもほとんど昔のことを知らない人達にみえた。来年もあるかとも思うが、誰がどう出てくるのかとも思った。
帰りの汽車まで時間があると思っていたら、弘前まで県の車でお送りしますという。有り難いことであった。審査委員長と思われるM教授と弘前までご一緒になり、何やかやお話しできたことは幸いだった。