第6回世界心臓学会議に出席して
(国際研究集会参加記 その37:学術月報,23,655-657,1971)
1970年9月6日から12日まで、連合王国ロンドン市において、第6回世界心臓学会議(VI World Congress of Cardiology)が開かれた。
1946年 International Society of Cardiology(ISC)が組織され、1950年にパリにおいて第1回の世界心臓学会議が開かれて以来、4年に1回の会議がもたれ、第2回ワシントン、以下ブラッセル、メキシコシテイ、ニュ−デリ−と、今回で第6回目を迎えたことになった。
今回の参加国は74か国で、まさに万博、オリンピックなみであり、参加者も会場の関係で、3500名と制限され、同伴者も入れると約5000名がロンドン市に集まったと報告された。発表論文も1000以上もあったが、口演論文としてはその中から150を採用せざるを得ないような盛会となったのである。人類の健康問題の変貌、また世界中にCardiologistとよばれる者が約6万名もいる今日においては、当然のことであろう。
日本からは参加者は登録名簿によると63名であったが、ほとんどの研究が紙上発表にまわされたこともあってか、実際に参加された方は多少へったようにみうけられた。日本人は数の上ではかなりの割合をしめていたし、またその研究内容の質的水準もかなり高いと思われるのに、実際には発表に採用されたものはほとんどなく、討議に加わった姿をほとんどみることのできなかったことは大変残念なことであった。
第1回以来公用語は英、仏、スペイン語の3か国語で、同時通訳のレシ−バ−をあてていた人の数から推測すると約9割は英語が通用しており、英、米の研究者が研究者が自分達のだけの学会のようにペラペラやっているのをみると、いささか国際レベルで反省を要求したくなるのはなにも日本人だけではないだろう。日本人の語学不足、またプログラム委員会が意識的に除いたどうかは知るよしもないが、日本の研究が世界への発表の機会が少なかったことは、今後の問題点として指摘されなければならないだろう。
世界心臓学会議の内容は、心臓病・脳卒中・高血圧等、循環器に関する生理・内科・外科・予防医学・リハビリテ−ション等すべての領域についての議題について、世界の専門家が討議を行うものであり、東洋の、特に日本人に心臓病が少なく、脳卒中や高血圧が多いといった疾病像の特異性が再認識され、またわが国での研究が広く国際的に関心をよぶようになってきた今日において、あらためてこの世界会議における日本のしめる位置を考えてみるのである。
ISCという国際的な組織に、日本の意見がどれだけ反映しているかが問題である。一時期、京大の前川教授が執行部に入っておられたことがあった。今回、上田英雄教授がExecutive Committeeの一人になられた。また、1970年5月にISCに関連のあるInternational Heart Foundationの一つとしてわが国に日本心臓財団が発足したことが、足がかりとなるであろう。執行部の人選、そしてこのような大規模な会議のあり方が現在問題になっているようだが、日本がどのようにこの会議に参加してゆくかは十分検討してゆかなければならないと思われる。次回は4年後アルゼンチンでの開催がきまったとのことであった。(第8回は東京で開催された)
ISCの組織は、4年に1回の世界会議を開催する仕事のほかに、実際にはその下部組織であるSpecial Committeeの活動によってささえられている。そして現在、研究面として八つのScientific Councilsがある。Arteriosclerosis
and Ischemic Heart Disease, Biophysis, Cardiomyopathies, Clinical
Science, Epidemiology and Prevention, Hypertension, Paediatric
Cardiology, Rehabilitationの八つである。それぞれChairmanがおり、事務局があり、年間の活動をしている。
私自身は、自分の専門領域と関係があり、また4年前文部省の在外研究員として渡米した際、客員教授の席があたえられていたミネソタ大学の生理衛生研究室の主任であるA.keys博士がChairmanをやっている”Council
on Epidemiology and Prevention”のmemberの一人である。この会は4年前ニュ−デリ−で世界会議がもたれたとき誕生した。その誕生の主旨は、人類をおびやかす循環器系の疾患は、すでにその病気になやんでいる人を治すことだけでは本質的にはすくわれない、予防を可能にするために発生要因に探求にとりくまなければならない、と語られている。そのために情報の交換、国際的協力による研究の推進、若い研究者への循環器疾患についての疫学の講習会が行われている、今回の世界会議の前にも、アイルランドのダブリンで講習会が開かれ、36名の参加があったが、日本からは順天堂の牧野博士が単独参加された。このような会にも若い研究者が多数参加できるよう配慮が必要であろう。
私が今回の会議のround table sessionの中での発表の招待を受けたのも、Council
on Epidemiology and Prevention がスポンサ−になっている2つのテ−マ、Epidemiology
of Ischemic Heart Disease”と”Causative Factors in Hyperension”の後者のテ−マにあった仕事をしていたことが知られていたからであろう。ちょうど1年前の9月にScientific CommitteeのChairman をやっているDr.Dolleryから手紙を受け取ったのであった。
ロンドンで開かれる世界会議の中で行われる”Causative Factors in Hypertension”(高血圧の成因)というround
table sessionで、”The Salt Factor in Hypertension"(高血圧における食塩因子)について、最近4年間の仕事を10分間でreviewしてくれないか、そのあと10分間の討議がある、全体で2時間のプログラムだが、他に予定されている人々はかくかくだ、学会の登録の費用30ポンドは会議の方でもち、Social Programmeは入場無料だが、旅費とホテル代はもちかねる、抄録と通訳のための原稿を用意してくれとの手紙であった。旅費といっても、ほとんどが航空料金であるが、われわれにとっては大ごとである。各方面に旅費の工面に手紙を出したところ、その返事に、日本は今や"affluent”(豊かな)国とみられていうことを知っただけであった。無理してでも出席しなければと思っていたところ、幸いにも文部省の国際研究集会派遣旅費によって出席できたことは本当に幸いであった。
世界の人達をあつめ、どのように会議を運営するかは大きな問題である。
今回の会議のパトロンはHer Majesty the Queenで、開会式には顔を出さなかったが、写真とメッセ−ジは印刷されていた.。
”Your efforts to relieve human affiction command our
respect and admiration as well as our gratitude””The results of
your researches are of the greatest interrest and importance to
all and I trust that your discussions and exchanges here may stimurate
further advances in your importance work”とバキンガム宮殿からのメッセ−ジにあった。
会場はテ−ムズ河南岸にたてられたロンドン第1の近代的な劇場Royal Festival Hallと隣接したQueen
Elizabeth Hall などがあてられ、会期中英国旗と学会のシンボルマ−クの旗がテ−ムズ河に面してはためいていた。
会長はProf.Sir John McMichael(British Postgraduate Medical Federation)で開会の言葉の中で、地域社会におけるわれわれの責務の重要性にふれ、この会議のもち方について述べられた。
会期中、毎朝Plenary Sessionが行われた。各方面から選ばれた演者が一人約20分、テ−マごとに最近4年間の学問の進歩を総説し、討議もあったが、日本からの演者・討論は残念ながらなかった。演題のテ−マは次ぎのようなものだった。
Hypertension, Paediatric Cardiology,The Myocardium
and Cardiomyopathy, Replacement of Heart Valves, Acute Myocardial
Infarction
午後の前半はConcurrent Round Table Sessionで、選ばれたテ−マごとに五つの会場で行なわれた。堀博士がCardiac Pacingの副座長に、榊教授がPathophysiology after Perfusionの中でDate Collection and Measurementの発言者に、西村博士がThe
Arteriology and Prevention of Congenital Heart Dideaseの討論者に、アメリカから参加された阿久津博士がCardiac
Transplantation のMechanical Assistance to the Circulation のパネリストに名前が拝見された。
高血圧の成因のround table sessionの座長はロンドンからジャマイカへ行ったDr.Miall
で、ニュ−ジ−ランドのPriorが高血圧のない人口集団、そして私の話(英文抄録、邦文「高血圧における食塩因子」)、ミシガンのEpsteinの高血圧と肥満・高血糖、ノ−ルウエイのHumerfeltの脳卒中と高血圧のテ−マで10分追加、討議があった。私が述べた日本の、特にに東北地方の食塩摂取と血圧の状況、血圧論、高血圧対策の効果、とくに若い人の血圧への影響の発表は大変興味をもたれた。食塩と高血圧との関係は追加討論もあったが、国際的に再認識されてきたとの印象を強めた。ヨ−ロッパ、アメリカでも話題になるらしく、新聞記者、TVカメラのインタ−ビュ−を受けたほどだった。
午後の残りの時間は一般演題にあてられ、テ−マごとに討論が行われた。Film Programmeの中で上田教授のContraction of the Heartが上映された。展示は主に患者監視装置であった。技術的進歩を示すものとして、隣のSt.Thomas病院からの生のカラ−TVの拡大スクリ−ンへの投影のデモンストレ−ションが行われた。
Social Programmeとして会期中行われた夜のオ−ケストラ、赤い制服、黒い帽子のバンド、テ−ムス河での花火、そして英国風のレセプション、またLondon Programmeについては書く余裕がもはやなくなった。
会場内のUshers(案内係)はred sashes(赤い肩掛)をかけた男女医学生によって行われたが、無料奉仕を申し出た彼氏彼女らが、もっともしばしば受けた質問は”Do
you know any good nightclubs””Where are London's exiting spots”であったと、会期中毎日発行されたCongress Daily Chronicleが伝えていた。
毎日ホテルから会場まで地下鉄を利用したが、案内の掲示版も、学会最終日にはあとかたもなくとりさられて、いつものロンドンにかえり、5000人は世界に帰っていった。
(9月29日ナセルの心臓発作による死亡のニュ−スを聞きながら)
追加
「ロンドンの名所」を書いたあと、思ったより早く再びロンドンを訪問することができた。
第6回の世界心臓学会議への招聘状はミネソタ大学宛であった。その時はすでに帰国したあとであった。
”affluent”(もはや日本は豊かな国)と返事をよこしたのはDr.Stamlerであった。
柳川昇学長を通して文部省の国際研究集会派遣旅費がもらえたのは幸いであった。丁度文部省事務次官であった竹内黎一氏にお世話になったものだと思っている。
公用旅券であったので出張期間ぎりぎりで出発・帰国した。
羽田からロンドンまでの直行便エ−ロフロ−トをえらんだ。ロシヤ語だけで全然分からなかった。モスクワで一回とまった。受付に英語のしゃべれる美人の女の子がいた。帰りはパリから羽田へのJALにのった。
富永祐民先生 小林太刀夫先生 J.Joosens・上田英雄先生
同じホテルでアメリカから参加していた富永祐民君との出会いは忘れられない出来事であった。朝飯の時今日しゃべる原稿をみてもらった。
学会のことをテ−プに吹き込んで来られなかった人の教育に役立たせるとかで、小林太刀夫・木村登先生らとマイクの前で喋らされた記憶がある。
テレビのインタ−ビュウ−を受けたとき「Civilization
is saltization」としゃべった。
ピッカリングの本態性高血圧の著書が出版された時で、後日日本医事新報での「高血圧と食塩との関係」の質疑応答に紹介した。
万有の岩垂英二君(慶應幼稚舎同級)が連絡してくれて現地の方にお世話になった。
ロンドンから”Bath”までドライブし、ここまでロ−マの手がおよんでいるのかを示す遺跡をみることができた。
もうひとつ父がいつも使っていて小さいときから記憶にあった「黒い透明なシャボン」を求めたい気持ちがあったことを思い出す。
その日の夜おそく出発の朝までメンバ−ズonlyのクラブへいったことも記憶にある。
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