ある日の会話から(5)
「あなたこの頃 変わったは 何を考えているのかわからない」
「そうみえるかもしれないな 先日まで仕事の(覚書シリ−ズ)で昔のことを書いていたし 生まれた頃からの写真や親戚の写真を整理して入れたり 芭蕉ではないが (写真みて 夢は 昭和を かけめぐる)だからな」
「先日の(神の国)発言と 全く同じ文句が 古い資料の中にありました」
「海軍に見習尉官で入って 最初の教育は(軍人教育)であったわけで その当時のノ−トがありました おどろくほど きちんと字を書いて」
「あなたは以前は ちゃんと字を書いていたのに この頃は・・・」
「海軍軍医も明治から数十年 システムはほぼ完成された段階だったから 色々とこまかいところまできまっていて それを短期間に教えられた」
「海軍のクラス会(濤光会)の(貴様と俺とは)でいつも話題になる(教育主任)の(笹川濤平中佐)は (勅諭)とくに(陸海軍人に賜りたる勅諭)を何時間もかけて講義し解説しているノ−トが出てきました 今読み直してみるとなかなか面白いのだけど」
「(神の国)はどうなったの」
「それがノ−トの一頁にちゃんと書いてありました」
「1.大日本ハ神ノ国ナリ」
「1.天皇陛下ハ現人神ナリ」
「1.我ハ日本民臣ナリ」
「1.我等ハ天皇陛下ノ御為ニ生マレ 我等ハ天皇陛下ノ御為ニ働キ 我等は天皇陛下ノ御為ニ死セン」
「これを半年間びっちり鍛えられたわけだ この期間の成績が 任官発令の順序になり 士官室での座席の順がきまり ひいては海軍軍医中将への階段に関係すると云われていたから 頑張った」
「で成績は どうだったの」
「ヒョウショウジョウに書いたように卒業のとき(短剣)の賞状をもらいました 現物はもらえずじまいだったけど」
「昭和19年1月1日に チンタオにいたとき (軍人に賜りたる勅語)をそらで書かされてことがありました 今思うとよく記憶したと思うんだけれど ミスなしの記録があります わが記憶の証拠としての記念品です あの頃24歳の年令の記憶力はよかったんだな 内容を全く覚えていないけど」
「それが終戦になって”Suurrender”なんて言葉をつかって(My life after the
Surrender)の日記を書いています」
「それに昔の”恋文”でしょう 最低だわ 彼女のところに飛んで行けばいいのに」
「私の年齢は(原節子さん)の時代だから 昔の輝いている時のイメ−ジがいつまでもあったほうが良い 新宿の駅で一度あったことがありました その話を清里の千代子さんにしたら ”やけぼっくりにひがついて”と ひやかされたことがありましたが そうはなりませんでした」
「”This is my first love 1945-48”の存在を知っているのは 君しかいないと思うんだけど 子供達も知らないし それを君に見せたことがありました 女心を知らないと思ったかもしれないが 結婚するにあたって 君と会う前にこんなことがあったと 知っておいてもらいたかっと その時考えたのでしょう」
「先日50年前の人への”恋文”をどこかで募集したら 数万通あつまった という番組を放映していたようだが それとこれとは全く違う考えなんだけど わかってもらえないかな」
「あなたと私と考え方が違うんだから なんともいえないは」
「先日徹子の部屋で 黒柳さんが 私が死んだら 秘書に 私のものは 皆シュレッダ−にかけて といっていたけど 色々考え方があるのは 致し方ないな
人それぞれ いろんなことがあって それが人生というものだ と 私は”男と女”が あるとき そのとき 何を考え どうこう どうしたか の 事実は貴重だと 思うんだけど 男の仕事 女の仕事 結婚とは 子供とは イギリスで問題になっているブレア首相の育児休暇とか 国連女性の会議とか まだよく分からないことが多いけど ”恋愛とか結婚とか離婚”とかが話題になり それが”かね”になるのは 芸能人か小説家のたぐいだと思うんだけれど NHKの人間講座で”漱石先生の手紙”が放映され その中で芥川龍之介の”恋文”が紹介されていました」
「あなた漱石先生とかたをならべる気持なの」
「”その時歴史は動いた”という番組で 漱石先生が”大学教授になるか小説家になるか”をテ−マにやっていましたが ”贅沢な話だな”と思いました 私にとっては石坂洋次郎先生の”小説で飯が食っていけるかを考えた時”のその時”のほうがずっと深刻だと思うんだけど」
「それにしても今度日記や手紙を読み直してみて 丁度沖縄55年記念の式典をやっていましたが ちょうどあのころの自分を再認識しました 良いとか悪いとかの価値観ではなくて ひとつの男と女の手紙のやりとりの記録は いつかだれか読んでくれるだろう どういう印象をもち どう読まれようと そんなことは読む人の自由だけど 自分のことを思うと ”福沢先生の書いたもの” とくにこの問題については”新女大学”に影響を強く受けているように思われます ”男女共同参画法”が施行されて一年というのに それよりずっと前に考えていたのだから ”結婚は略奪結婚が原点だよ”という声がそばから聞こえた記憶があるのだが 女の人格を認めようとした しかし経済的に責任がもてない当時の自分が悩んだ姿を思い出します」
「海軍軍医として終戦処理をし 復員業務も無事にすませ さて如何に生きるべきか考えた時でした その前に親戚の彼女をもらいたいと求婚状を出していたのだから 東京に転入するのも大変 食糧事情も悪く 無給助手でした あの当時教室に勉強にもどった方達はほとんど無給じゃなかったかな 親から海軍からもらった金 手持ちの金で数年は勉強できるとふんだのに それもすぐ封鎖になった また東京へ出てきてすぐインフレになって 数年もつはずなのが一月になった 暮らせなくなり どうしようと考えた時でした 近くの診療所でアルバイトしながら 勉強したいと考えたんだな 勉強勉強とだけ考えていたのだが それも内容は何であったか 上田先生が病気になられ 私のテ−マはCOに変わったし 旧軍人は”追放”されるという噂があり また同じ教室に戦犯で追われていた先生がいたし 事実22年には追放になり すぐ翌年解除はされましたが そんな中によく20数通の手紙を交わしたものだと今思います 彼女の手紙で戦後の女子大の生活が伺われ 興味もあるが ああ そんな時代があったのかと今改めて思っています」
「彼女が卒業してしばらくして21年7月にそれまでの手紙が送り返されてきたときは 死んだように 三鷹の寮で寝込んだ日のことが思い出されます そして手紙を返送する前に彼女の手紙を写しとっていたので今読めるのだけど」
「まあいやらしい」
「彼女が最初”直感で親戚はさけたい”と何故考えたのかわからないけれど 結果的にはそうなりました 小さい時母から”淳吉さん”は奥さんが亡くなったとき”墓場にポストをつくって毎日手紙を送ったカワリモノ”と聞いたことが記憶にあるのだが 今こうして手紙のやりとりを記録にのこそうと思っている自分も”カワリモノ”かもしれないと その孫と子が結婚しなかったことは よかったかも」
「君と会えて 君と会ったときは昭和25年6月だけど 追放が解除され 文部省から奨学金をもらい 助手から講師になり いろんなところの(保健衛生)の講義などたくさんあって 工場の衛生管理などの副収入があって 独身貴族ともいわれていた時代になっていたわけだから 事情は全くちがいます」
「でもその先はどうなるかは全くわからない時だったわけだけど 10歳も違う君は何にも分からなかっただろうな せっかく青森から東京へ勉強に出てきて 夢ふくるる時だったのに 僕に結婚をしたいといわれ 結果的には弘前にもどされてしまったわけで でも子供にぐまれて よく育ててくれました」
「その子供達もその奥さんになった人また孫達が これを読んだら 私の別の面が分かっていいのではないでしょうか」
「また自分の手紙を読んででみて今思うのいは いつか書いた”私はepidemiologist疫学者”というその考え方の芽生えが いくつかみられることに気が付きました 私の表面的な仕事 今(日本の塩の先生)とか最近は(りんごの先生)といわれるような仕事をした人の背景に また同じ人にも こういう一面があったという記録は何か将来読んでくれる人がいるでしょう」
「(”わが青春の記録”として いつかはこんな時がくるかもしれないと、私の手紙を記録に残す作業をするべきか、残さずそ−としておくか、ず−と考えていたことなのだが、昨晩の夢の中に出てきたので、今コンピュ−タ−の前に座っているのだ)と書いたのが昨年の10月だったけど ついに書いてしまった 50年たって私の”文書公開”です」
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