「文明論」というと私には福沢諭吉先生の「文明論之概略」がすぐ頭に浮かぶ。
私のような慶應義塾の中で育った人間としてはこれから逃れることはできないのだが、「義塾」に先生が何をイメ−ジしたかについては前にふれたが、あらためて先生の「文明論」に何が書いてあったかを見直そうと思った。
最近「文明の衝突」とか言われることがあるし、私も「血圧論」とか「食塩文化論」とか言ったり書いたりした手前、先生が「文明論」の中で何を言っていたのかを読み直そうと思ったのである。
「文明論」と「文化論」との相違についてここに論ずるのではないが、ちなみに大学の図書館で”OPAC”で検索すると、「文明論」は20件、「文化論」は101件ヒットされ、「文化論」の方が多く書かれていると認識した。
「文明論之概略」を「近代日本の古典」との認識にたって「読書会」を始められた丸山真男氏の、その記録が「岩波新書325-327、昭61」にあることを知って読んだが、それを読む前のものである。 ただその中の「古典との付き合い方として」に語られていた言葉「先入観の排除」「早呑み込みの危険性」には同感であった。また「”文明”ということばはたんに古臭いだけでなく、科学技術の偏重とか、物質中心主義とか、公害源とかいうはなはだ芳しくない連想と結びついておる」「私たちは、どんなに自分では”自由”に思考していると思っても、現代の精神的空気を肺の奥底まで吸いこみ、現代の思考範疇をメガネとして周囲の光景を眺め、手近なところでいえば、現代の流行語を十分な吟味なしに使って、物事を論じています」も同感であった。
私には以前に読んだ「歴史する心」(増田四郎:創文社版,昭和42)に書かれていたことの影響があったと思う。それは「歴史をふりかえってみると、古今東西、きわめて多くの歴史家であっても、その研究のきっかけなり、その関心の重点なり、その業績なりというものは、後生からみると、すべてこれ、その歴史家が生きていた時代の思潮や諸情勢の反映でないものではなかろうかという気がする」と。
福沢先生が書かれた「文明論」はどんなものであったかを書き留めておく。
私が先生の論文にふれたのは昭和3年の岩波文庫「福沢選集」また昭和12年の岩波書店刊行の「福沢文選」からである。
明治8年先生42歳の時に書かれた「文明論之概略」の初版をみたわけではない。また最近刊行された「書簡集」を読んでその当時の先生の考えを考察したものではない。岩波文庫(33-102-1,1995)の解説によると「昭和11年・・皇室関係に関する記述につき次版で改訂処分を余儀なくされた」とあった。今度読み直したときには「日本の名著:福沢諭吉、中央公論社、昭44」によった。
その「緒言」に先生の考えが凝縮されていると読んだ。
「文明論とは人の精神発達の論議なり。その趣旨は一人の精神発達を論ずるにあらず。天下衆人の精神発達を一体に集めて、その一体の発達を論ずるものなり。ゆえに文明論、あるいはこれを衆心発達論と言うも可なり。けだし人の世に処するには、局所の利害得失におおわれてその所見を誤るものははなはだ多し。習慣の久しきに至りてはほとんど天然と人為とを区別すべからず。その天然と思いしもの、はたして習慣なることあり。あるいは習慣と認めしもの、かえって天然なることなきにあらず。この紛擾雑駁(ふんじょうざつばく)の際について条理のみだれざるものを求めんとすることなれば、文明の論議また難しと言うべし」とあった。
「衆心発達論」とあるのは最近私が書いた「精神的拉致」を連想する。
「たといその説新希なるも、等しく同一の元素より発生するものにて、新たにこれを造るにあらず」とあるのは、もとになった「情報」を連想する。
「試みに見よ、方今わが国の洋学者流、その前年は悉皆漢学生ならざるはなし。悉皆神仏者ならざるはなし。封建の士族にあらざれば、封建の民なり。あたかも一身にして、二生を経るがごとく、一人にして両身あるがごとし」とは分かりやすい表現である。それでいて先生は「洋学」をうりものに義塾を創ったのである。
「けだし余が彷彿たる洋学の所見をもって、あえてみずから賤劣を顧みず、この冊子を著わすに当たりて、直ちに西洋諸家の原著を訳せず、ただその大意を斟酌して、これを日本の事実に参合したるも、余輩のまさに得て、後人のまた得べからざる好機会を利して、今の所見を遺して後の備考に供せんとするの微意のみ」
「書中、西洋の諸書を引用してその原文を直ちに訳したるものは、その著者の名を記して出典を明らかにしたれども、ただその大意をとってこれを訳するか、・・・これを譬えば食物を食らいてこれを消化したるがごとし。・・・ゆえに書中にまれに良説あらば、その良説は余が良説にあらず、食物の良ばるがゆえと知るべし。・・・」
先生が西洋の論文にふれて、その中の言葉を日本語に翻訳するときの心構えが分かる。先生は新しいいくつかの言葉を創ったりしているが、「ネ−ミング」の才があることが伺われる。だがこの点は、「観察・記録・考察」を積み重ねてゆく「科学者」との違いを感ずる。
第一章の「議論の本位を定める事」から始まり、「西洋の文明を目的とすること」「文明の本旨を論ず」・・「西洋文明の由来」「日本文明の由来」そして「自国の独立を論ず」で終わっている。
「議論の本位を定めること」の中に「軽重、長短、善悪、是非等の字は相対したる考えより生じたるものなり」とあった。
「西洋の文明を目的とすること」のはじめに「前章に事物の軽重・是非は相対したる語なりと言えり。されば文明開化の字もまた相対したるものなり。今世界の文明を論ずるに、・・・を最上の文明国となし、・・・をもって半開の国と称し、・・・等を目して野蛮の国と言い、この名称をもって世界の通論となし、・・文明の齢(よわい)と言うも可なり」とあった。
「野蛮・半開・文明」とある考え方は世にいう「進化論的倫理観」に影響されているように読みとれる。
「今余輩がヨ−ロッパの文明を目的とすると言うも、この文明の精神を備えんがため、これを彼に求めるの趣旨なれば、・・」「文明の外形はこれを取るに易く、その精神はこれを求めるに難しとの次第をのべたり」とあった。
西洋文明が絶対的に最上の文明国とはいっていないと考えられる。しかし西洋は千年、日本は二千五百年の「国体」がありとの認識が伺われる。それでいて当時の日本を「半開の国」ともいっているところに先生の考えを理解するの難しさを感じる。
国体についての先生の考え方は次ぎの文章にあった。
「第一に、国体とは何ものをさすや。世間の議論はしばらくさしおき、まず余輩のしるところをもってこれを説かん。体は合体の義なり。物を集めてこれを全うし、他の物と区別すべき形をいうなり。ゆえに国体とは、一種族の人民相集いて憂楽をともにし、他国人に対して自他の別を作り、みずから互いに視ること他国人を視るよりも厚くし、みずから互いに力を尽くすこと他国人のためにするよりも勉め、一政府の下に居てみずから支配し、他の政府の制御を受けるを好まず、禍福ともにみずから担当して独立する者を言うなり。西洋の語にナショナリチ(nationality)と名づくるものこれなり」
「第二にポリチカル・レジメ−ション(political legitimation)ということあり。ポリチカルとは政(まつりごと)の義なり。レジメ−ションとは正統または本筋の義なり。今仮にこれを”政統”と訳す」
「第三に血統とは西洋の語にてラインと言う。国君の父子相伝えて血筋の絶えざることなり」
「右のごとく国体と政統と血筋とはいちいち別のものにて、・・・この時に当たりて日本人の義務はただこの国体を保つの一カ条のみ」と。
後日先生49歳のとき「帝室論」を書かれているが、内容はまだ読んでいない。「二千年以上」の「ライン」は尊重されるべき「文明」との考えによっているのではないかと思うのであるが。
私にとって先生が「文明」をどこから取り入れた言葉であったかが興味があったし、それが「文明の本旨を論ず」の章にあった。
「そもそも文明は相対したる語にて、その至るところに限りあることなし。ただ野蛮の有様を脱してしだいに進むものを言うなり」
「文明とは英語にてシウイリゼイション(civilization)と言う。すなわちラテン語のシウイタス(civitas)より来るものにて、国という義あり。ゆえに文明とは人間交際の次第に改まりて良きほうに赴く有様を形容したる語にて、野蛮無法の独立に反し、一国の体裁を成すという義なり」
私が昭和45年ロンドンでの第6回世界心臓学会へ行ったとき、テレビのインタ−ビュウ−に答えて「Civilization is saltization」といったのは「Civilization」は「梅毒化」(シフィリゼイション)が頭にあって口について出た言葉であった。「civilization」を先生は「文明」という言葉におきかえて論じていたことが判明したことは今度の収穫であった。その「文明」は「衆心発達術」とあったのも我が意を得たりの感がしたのが読後感である。
しかし「次第に改まりて良きほうに赴く」が先生の「文明論」の中にながれている考えであることが伺われる。
それにしても先生の「文明論」に言いたかったことは、「自国の独立を論ず」にあったのではないか。
「西洋諸国と日本の文明の由来を論じ、その全体の有様を察してこれを比較すれば、日本の文明は西洋の文明より後れたるものと言わざるを得ず。文明に前後あれば前なるもの後れなる者を制し、後なる者は前なる者に制せらるの理なり」「文明の後なる者は先だつ者に制せらるの理を知るときは、その人民の心にまず感ずるところのものは、自国の独立如何の一事にあらざるを得ず」「「文明駸々乎(しんしんこ)(進歩のはやいさま)として進む」「忠臣義士の論も耶蘇聖教の論も、儒者の論も仏者の論も、愚なりと言えば愚なり。智なりと言えば智なり。ただそのこれを施すところに従いて、愚ともなるべく智ともなるべきのみ」「もって同一の目的に向かうべきか。余輩の所見にて今の日本の人心を維持するにはただこの一法あるのみ」と。
時あたかも「天保の老人たち」のあとの明治維新前後の時代、いわゆる「帝国主義的侵略」を身近に感じ、「いつ必殺にあうかも分からない危険」にあった時代によくこの文を書かれたものだと思う。自分は「先生」とはいわず、続きは次ぎの時代の人にまかせようと読みとれる論文であったが。
それから百数十年。日本が敗戦を経験し、新生日本になった今、世界に展開される「戦争」また「国づくり」の中におかれている。先生だったらどんな文明論を書いたであろうか。
WHOが指摘した「エイズ」の問題がWTOで論じられる時代。「SARS」が新しい伝染病として認識される時代。先生の後輩はどう考えたらよいのであろうか。(20030610)