ネ−ミング

 

 先日三男の繁(しげる)から”長男の名前”についてEメ−ルが入った。

 「子供の名前は、伸ノ亮(しんのすけ)に決めたいと思います。この子の人格とは関係ないところで、親が決めることができるおそらく最初で最後のことなので、いろいろと考えてみました」と。

 「昨今、日本の成長は低迷した状況にあると言えるのでないでしょうか。そこで、この子が今後何らかのかたちで日本の成長を伸ばす助けに関わってくれたらと考えました」と。

 「「すけ」は佐々木家累代によく見られるので「亮」に、また、姓名判断も考慮して「の」は「ノ」にしました」と。

佐々木伸ノ亮(2001.8.23.生まれ、2002.5.9.撮影)

 「 この子の人格とは関係ないところで、親が決めることができるおそらく最初で最後のことなので」というのは素晴らしい判断だと思った。

 祖祖父は「哲之進」(てつのしん)、祖父は「和亮」(わすけ)、父は「哲亮」(てつすけ)、兄は「正亮」(せいすけ)である。

 「直亮」というのは、親がつけてくれた名前で私の判断ではないが戸籍に登録されている。もっとも戸籍には「亮」ではなく、「JIS第1第2水準規格」にない字で、「口」でなく「月」のような「亮の略字」と辞書にあった字が登録されている。勲記にはさすがちゃんと戸籍にある字が書かれていた。息子が婚姻届を区役所にとどけるとき、父の私の名前として「直亮」と書いたら戸籍にある字と違うといわれたとか。

 これをなんと読むかは記録にはないが、私は(なおすけ)と呼ばれた。そこで私のHP(ホ−ムペ−ジ)は「naosuke」にした。よく「ナオスケ先生」と呼ばれる。愛称は(なおチャン)で、小学校時代にはアダナは目に特徴があったのであろう「デメキン」であった。

 大河ドラマでは、人の名前は上の者から与えられるもので、「さる」「いぬ」が「太閤秀吉」になり「前田利家」にまで変わるのである。

 明治時代の人は成人してから本名とは別の「号」とか「雅号」とか言われる名前を自らつけていた。「鴎外」も「漱石」も自分の判断でつけた名前であろう。

 最近では「ペン・ネ−ム」で、同じ人なのにいくつものネ−ムをもっている人がいる。「りんごの歌」を作詞した「サト−ハチロウ」も、自分の書いた「詩」にいろいろと名前をつかいわけしているようだ。

 マラソンで優勝した「ロバさん」は日本ではよく通じるが、本名は別にあるようだ。ついでにテレビ朝日でニュ−スが入ったその時の久米さんの解説で「何年生まれ?年はいくつ?」と話題になったエチオピアだかの「暦年」も記憶にある。

 ことば、文字、そしてその意味をテ−マとして、いろいろ考えることが多いのだが、自ら書いたもの(文字)を振り返ってみると、どんな意味でその文字を使っていたかを考えることがある。

 図書館にある何冊かの大きなOxfordの辞書をみると、一つ一つの言葉にそのよってきたるラテン語などの語源が書いてあり、その言葉を何年に誰がどのような意味で使ったかが書いてある。漢字の場合の語源としてどの様な意味が含まれているかの言語学者の説明があるが、その文字を何時・誰が・どのような意味で用いたかを示す辞書はみあたらない。

 言葉・文字その意味は生き物でその時代時代、時の流れと共に変わってゆくようで、それが国ごとにことなり、「翻訳」の問題と絡まる問題である。

 国のかたちとよく言われる国の基本になる「憲法」も難しい。「ジョン・ダワ−:敗北を抱きしめて(三浦他訳)岩波」を読んでつくづく思った。戦いが終わった時7才だったアメリカ人が書いた本だが、日米いろいろな資料に目を通している。「健康」問題についての記述がなかったのは残念だったが、占領政策の内幕・憲法などに関する記述は特に詳しい。当時の新聞紙上にみられた漫画や記事なども考察されているが、、「実体験」のある者としては当時の世相を思い出す本である。

原著名は「EMBRACING DEFEAT:Japan in the Wake of World War II」である。「embracing」は「親子・男女が抱擁する」と辞書にあったが、この著者の奥さんは靖子さんということと関係があるのか。妻メリ−からいろいろ聞かれて「BUSHIDO」を書いた新渡戸稲造を思い出す。「defeat」は「やややさしい負け」であって、私が書いた「surrender」の「戦争に負けて城をあけわたす」より意味がかるいのは、戦争の実体験がない人の文章であるからであろう。新聞にあった「それでも日本人か」(加藤周一)やNHKの「日本人論・再考」(船曳建夫)、そしてW杯サッカ−で「ニッポン・ニッポン」コ−ルを叫ぶ人達をみると、それぞれ時代を感じる。

 正月の挨拶に書いたようにどんな情報がその作者の頭にあったかが問題である。

「大本営発表!」だけが「情報」であった時代から、戦後私個人としては自分の手紙が「opened by」にあった体験しかないが、当時GHQの「情報」の操作があったことが読みとれる。昭和天皇が亡くなられたあといろいろ知らない情報が公になり筆がすすまなくなったことについては前に「衛生の旅Part 5」の「一日一考」に書いた。

 自然科学の研究だけしかやってこなかった自分には、研究のテ−マに関係のあることを何時誰が述べてきたかを世界中の文献に探し求めてきた。「original」であり「priority」である。だから血圧の研究に入りこんだときには「コロトコフ」などの文献をさがしたりした。そして「あだり」「脳溢血」「血圧」「高血圧」を考えてきた。

 今思うと何にも知らず「世界を回って」きた。帰国後「自分が考え、創った言葉(文字)」として「オ−テル」「Civilization is saltization」「BF:ベネフィット・ファクタ−」「HBMS」「りんごと健康」「食塩と健康」「健康句」そして「ゼツコン」を書いた。

医学的な病名もそれぞれ歴史があり、それを考えるだけでも面白い。今朝の新聞をみると、「統合失調症」が登場するという。

戦後日本に入ってきた「オフ・リミット」も「立ち入り禁止」と訳されたが、サッカ−の「オフ・サイド」もなかなが理解しがたいル−ルだ。ラグビ−では試合が終われば「ノ−・サイド」である。(20020701)

弘前市医師会報,37巻6号,286号,71−72,平成14.12.15.

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