「年金」についての記憶

 

 「年金」のことを英語で何というか調べたことがあった。

 「ペンシヨン」で、年金で生活していることを「on pension」ということが分かった。

 ペンシヨンというと、宿泊施設の印象があり、お金をためて家を何軒か造って落語に出てくる大家さんになって暮らすことを連想した。語源はラテン語で「重さをはかる、支払う」とあったが。

 親方日の丸で暮らしてきた身にしてみれば、国家公務員として「国家公務員共済組合」で長期積み立てをしていたので「退官」したとき「退職金」とそれ以来「年金」を支給されているので、それ以外の今話題の「国民年金」について云々する資格はないと思うのだが、すこしこのことについての記憶を書いておこうと思った。

 昭和29年弘前大学助教授で赴任したのだが、その前に勤務していた慶應義塾からは数千円の退職金をもらった記憶しかない。私立学校は「年金」など考えてもいなかった時代であった。教授の退職金が話題になっていることしか記憶にない。

 弘前では収入としての手取りは半額になったが、どうにか夫婦と子供一人まもなくもう一人生まれたが 生活は維持できた。月給は袋のまま家内に渡したが、その乏しい家計のなかで家内はよくやってくれたと思う。家計簿をつけることもなく、用途向けの封筒に分けると何も残らなかったようだ。それでも幾ばくかのものを疎開していた私の父母宛に送っていたようだ。

 「親は子供がみるものだ」と何となく思っていた。

 の思い出の中にあるのは、「戦後のインフレ」の中で父の予定がくるって、兄と私とで世話を見なければと考えていたことを思い出す。

 明治生まれのとしては「長男」が世話するもだと考えていたようで、弘前に滞在していた時にも弘前は「仮の住まい」また「扶養は長男」と考えていたようだった。

 自分達の将来はどうなるか、今云う「年金」はどうなるのかは考えてもいなかった。

 いざとなれば、食えなくなれば、「医師免許状」で食えるのではないかと考えていたのであろう。

 「恩給」という言葉は小さいときからの記憶にあった言葉だが、「お国のために戦った兵隊さんよ有り難う」の歌の文句のように、「軍人」「戦死の家族」の人達がもらうものが「恩給」のことであった記憶である。その自分の軍歴も私の「年金」の計算をするときに若干入っていたようだ。

 その内医療の中で「保障」か「保険」かの考え方が、問題になってきた昭和30年ころに、今話題の「年金」に関する制度が検討されていたのであろう。国民年金は1961年制定とあった。昭和36年である。

 「厚生年金」も前にできていて、「医療保倹」との関係で、働き盛りの勤労者が退職すると「国民健康保険」の方に移行するので、年とればそれなりに病気が多くなるので、その「医療」には費用がかかり「国民健康保険」は大変だなと考えたことがあった。それでいて「厚生年金」には金が集まって各地に「厚生年金会館」とか「ホ−ル」ができて、演奏会とか学会会場で利用した記憶がある。「カンポ」の施設もできで利用した。そんな時に今話題の「議員年金」ができたようだ。

 「任意加入」「義務化」と時代をおって制度が変わってきたようである。「うっかりミス」もいいわけにいわれている。

 あまり身近に考えていなかっったので、制度の歴史的考察・解説はできないのだが、自分としては「月給の手取り額」だけが問題であった。

 手取りの前に、今の「介護保険」の天引きのように引かれていて、それでいて長期積み立てをしていたことは認識してなかった。「介護保険」が制度化されたとき「保険」の金を集めるには天引きが良いと考えたのではないかとも思う。消費税値上げのときも考えたことがあった。

 国家公務員給与だけなら事務的に簡単だったと思うのだが、色々のところから講義や講演を頼まれて、よその人には「かせいでいる」と見られたのではないかと思うのであるが、「源泉徴収」があって、おまけに「確定申告」の必要ができたので、そのおりに「税金」について考える機会が与えられたように思う。「かせいでいる」のではなく「税金」をおさめるために働いている! 

 「長期積み立て」の「年金に関する商品」が出てきて、「確定申告」の際控除もできるし、「利率」も良いし、家内の積み立てを横目でみていたが、その積み立てが10年もすぎると、「会社」そのものがおかしくなって、「思惑」が外れたようだ。それでも元金保障ということであったが、会社がおかしくなると元手をわった。

 今ワイド番組で「年金」が話題として取り上げている。そのすぐあとのCMが「年金」医療」などの加入をすすめる映像であるのは、どうかと思うことがある。

 国家公務員共済組合はその点抜かりなくやっていたようだ。次ぎ次ぎと制度ができて、現在に及んでいるようだが、その中で「国民年金」に問題が起こってきたように見える。

 家族の中の「妻」の位置、その取り扱いが現在話題になっているようだが、世帯主にのっかって「三号」とかなんとかいっていたことが記憶にある。

 家内は「国民年金」の制度が出てきたとき、これをかけていれば将来お金が入ってくると考えたらしく、ほんの少しではあったが「掛け金」を出していた。自分でお金をかせいだことのない者の考え方であったとの推察である。それも60才になったときにもらわず、(今は65才までとなっているようだが)70才までもらわず頑張ったので,今170%の年金をもらっているのはよくやっていたと思う。それまでは私の収入だけで暮らせたことが基本にあると考えるのであるが。

 丁度バブルがはじける前の昭和61年に退職したので、退職金をどうするかと色々うまい話があった。うまい話には乗らなかった。借金はなかったし、わが家もあったから、まるまる残し、確実なところへと考えた。一部は「りんご健康科学研究所」へ、一部家内へ、一部まだ成人にたっしていなかった3男へと考えた。

 少し後れて大学生になった3男が年金加入年齢になったとき、万が一障害者になったら大変だと考えて加入をすすめた記憶がある。本人は自分のこととは考えなかったようだが、今その間加入せずに障害者になったときに保障をどうするか裁判ざたになっている記事がでている。

 私の死んだあとの未亡人年金と自分の年金とあわせれば、子ども達には迷惑がかからず生きていけるのではないか。(20040525)

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