「public」(パブリック)を意識しだしたのはいつ頃であったのであろうか。
昭和51年「新しい名前がほしい」と雑誌公衆衛生に、わが国における”公衆衛生”のあゆみを検討し、「Publicが公衆に、Healthが衛生になったが」と書いている。
それはわが国の新憲法の中に登場した”公衆衛生”であり、そのもとになったといわれる”Public Health”について、また同じ頃1946年に当時の国際連合の国々がニュ−ヨ−クにあつまってWHOの大憲章(A Magna Carta for World Health)をつくったときの”Health”を考えなければならないと述べた。
イギリスで「Public Health Act」(公衆衛生法)ができたのは1848年といわれているが、この立法の背景について特に検討したのではないが、疾病に関する学問的な成果、特にコレラについての病因論の展開、近代的な疫学の展開があったのではないかと推測していた。それまでは富のある者、権力のある者は、医師を奴隷として、また侍医として召し抱えていて自分の病気の治療もしてくれる、「健康」が保てる、と考えていたのに、コレラの様な疾病は、富・権力に関係なく起こるものであり、伝染病の原因の一つとしての細菌学が確立されてきたことがあったのではなかったかと考えていた。だから公衆衛生の定義として「公衆衛生は、共同社会の組織的な努力を通して、疾病を予防し、寿命を延長し、身体的・精神的健康と能率の増進をはかる科学・技術である」というウインスロ−の定義が云われていたと理解していた。
「public nuisance」も一市民が「物売りの声」かが「うるさい!」といったところから始まったと読んだ記憶があるのだが、先のコレラに代表される「水の衛生」から「Clean Air Act」「空気の衛生」としてイギリスで大気の汚染が問題になり、わが国でも色々問題が意識され、「公害」という言葉にひっくるめて、「公害・公害」と「公害」という言葉の聞かれぬ日がないという時があった記憶がある。そのとき「公」をどのように意識していたのか。
同じイギリスで「public school」が中国語に「義校」と訳されているのをみたといわれる福沢諭吉が、慶應義塾と命名するときに参考にされたと考察されているが、イギリスの「public school」は「私立」であることで分からなくなった記憶がある。わが国での学校は今まで「国・公・私立」と区分されていたのに、「公」「私」という言葉・文字からくる意味がわが国のものであり、イギリスでは「public」はどういう意味で捉えられているか判然としなかった記憶がある。
もともと「public」の語源はラテン語の「人民・人民の」とあったが、第一義には「公の、公共・公衆の」であって「private」に対する言葉であると辞書にあった。
となるとイギリスにおけるまた日本における教育制度の成り立ちにまでさかのぼらなくて「public・private」と「公・私」という言葉も理解されにくいことになると考えた。
長野県知事が「パブリック・サ−バント」と云ったと伝えられたが、「public・servant」をどのように理解していたかはわからない。
弘前大学へ赴任して「あっと驚いた話」の宣誓書にあった「国民全体の奉仕者」は一般には「公僕」といわれていた。
このように欧米でいわれる「public」も日本にはいってきてその訳を考えたとき、わが国で従来使われてきた「公」と「私」とにあてはめるとき、どう理解しあてはめてきたかは判然としないのが現状ではないだろうか。
「立国は私なり、公に非ざるなり」と福沢先生はのべたが、それについては私なりに解釈し前にかいた。
しかし文中に「奴隷」のことにはふれている箇所はみあたらなかった。
民主主義発祥の地といわれる古代ギリシャでは「あれが奴隷社会を前提として生まれた思想と」いわれるが、アメリカでもちょっと前まで「奴隷」の労働にたよっていた国が現代では「人権」をいう世の中である。
「国」も「憲法」も、今話題の「国づくり」も世界中色々である。
人の心、心情も、例を挙げるまでもなく色々である。「私情」と割り切って考えれば話は簡単である。
子が親を殺し、親が子を殺すこともある世の中である。
親から殴られて大きくなったら殴り返してやろうと考えた方もいたが、このことも理解できる話である。「殴られたら殴り返す」を是認するのも世の中である。
「目には目を」が自分達の考えであるとロシアのチェチェン紛争テロの指導者のインタ−ビュ−のTVが放映されていた。
広島への原爆投下の写真撮影をしたアメリカの方が広島をおとずれた時の放映があった。日本の生存者がどう考えるかとせまっていたが、それぞれに考えがあり、すれ違いにおわったようだった。私はあとで述べるが、生きていることを感謝すべきではなかったかと思った。
広島の慰霊碑の「過ち」という言葉が気に入らない人もおり、「日章旗」を引きずり下ろす人もいる世の中である。学園紛争の中で内ゲバもあった記憶もある。
前に伝統は人の心を支配すると書いたが、生まれ育った中で「私情」が色々形づくられるのであろう。「精神的拉致」については前に書いた。
「食うか食われるか」の中で育ったものは「まず自分が生きること」を考えるのではないか。
自然の不思議のTVの中で撮影された「パンダ」や「コアラ」をみたとき、これらの動物が世に愛されるのは、「天敵」がいない世の中で育ったのではないかと考えた。
小さい子供が「民主主義はいらない。平和がほしい」といっていた姿が記憶にある。
今日は8月15日である。色々思うこともある日である。
私は「終戦」ではなく「敗戦」という世代であるが、「Surrender」の日を思い出す。
広島・長崎は大きなテ−マではある。しかしその他戦災に死んでいった方もいる。飛行機事故で亡くなった方もいる。前に他殺・自殺について考えたが、基本的には一人の人が死亡したら生き返らない。その理由は色々あり、残された家族の思いは色々であろう。
今生きている人が生きてゆくことが大切なのではないか。その生き方が問題だと考える立場をとると、その人々の健康を、「public」として、考えることが、「エピデミオロジスト」としての自分の立場ではなかったのか。(20050815)