私が弘前に助教授として赴任した昭和29年頃は医学部として学位審査権獲得が最大の目標であったようだ。これは「新衛会」について書いたよう(1,2)に「新六」の大学の目標でもあった。
医学部30年史にあるように29年1月には草間良男先生ら戦後の医学教育に関係ある方々が審査のため来学されている。これにつづく大学院設置へむけての話があるが、その前に衛生学の高橋英次教授を仙台に送ったあと、私が後任教授として選ばれたことについて一寸ふれておこうと思う。
教授の選考は時代が変われば変わってゆくものであるが、私のときには全国からの公募になっていた。私の場合は衛生学とは別にいづれ公衆衛生学講座ができたときには、昭和34年には公衆衛生学ができて中村正教授が来られたが、その時の候補のひとりになるのではないかとの期待があって弘前に赴任したと思うが、その前に衛生学が開いてしまったのである。
あとで分かったことだが後日各大学の教授になられたような当時助教授の方々が色々な先生方の推薦で選考の候補に挙がっていた。その中で選ばれたのであるからその責任は重いしまたそれらの先生方には負けられないと率直なところ考えた。教授会できまったと耳打ちして下さった方がいた。
「大教8級に昇任させる。弘前大学教授(医学部)に昇任させる。3号俸を給する」であったがまた同時に「いのち」のドラマにあった医科大学もあったから「弘前大学弘前医科大学教授に併任する。任期は昭和35年3月31日までとする」であった。
だが決まったものの教職歴がまだ10年に満たないとかでしばらく教授会に出席しないようにとの話であった。
電話を2つにわけてそのうちの一つをちょっとはなれた柴垣さんの机の上において同時にベルがなるようにした。3 つなって私が出なかったら柴垣さんが「教授室です」と返事をするようにした。外からかけると私の部屋に柴垣さんがいつもいるような風にとった方がいたかもしれなかったが、「教授秘書」という役職はなかったが機能的にそうした。よくやって下さったと思っている。
助手の伊藤弘君が第一内科に移った。論文はできていたが弘前大学位審査権がなかったから高橋教授がいかれた東北大学へ提出して学位をもらった。武田壌寿君には講師になってもらった。すこしたってから学位をもらって、その時は弘前大へ提出したが、助教授になってもらった。昭和26年から高橋教授のもとで研修員であった福士襄君には助手になってもらった。福士君には前に高橋教授が使っていた広い部屋を研究室に使ってもらった。
昭和32年伊藤君の席があいて秋田県の井川村の診療所にいた三橋禎祥君は助手になったが、教室に来る前に「りんご」を貨車ではこんで「りんご摂取」の野外調査をやった。
そこで教授一助教授一助手二の定員はうまって教育に研究にどうにかすすめることができた。旧制学位が弘大でもとれることになってどの教室にも研究生がふえたが衛生学教室にも大勢研究生がはいり、前から始めていた「東北地方住民の脳卒中ないし高血圧の予防に関する研究」を推進することができた。福士君が書いていたことなのだけれど医学部あげて「学位製造工場」のように夜おそくまでどこでも電気がついていた。日曜日はどこへいってしまったのだろうと「月月火水木金金」を思い出しながら医学部新聞に「私の日曜日」を書いた。
青森の三戸など南部への血圧調査など秋田へも足をのばして集団的血圧測定に回った。「狼の森保健館」「西目」そして「金屋」についての覚え書きは別に書いた。
昭和32年7月秋田県西目村に福士君と一緒に予備調査にいった。中学校講堂で村の方々に「脳卒中の予防について」講演を行った。
教授官舎というのがあって、戦後の木造のオンボロ官舎であり市営住宅より住居環境は悪かったが、賃貸料がだだ同然の千円くらいの安いことがメリットであったので、下白銀町の時敏小学校のとなりにあった教授官舎に入った。隣は法医の赤石英教授であった。
窓の殆どない建物でおそまつのそれはそれはひどい官舎であったが、玄関の隣の部屋に窓を作ったり家のまわりの塀をつくったりして改造した。内風呂はなかった。家に風呂を設置したいと考えたが、臨時にとりつけた風呂の煙突の設置が不備が原因で、あとで「ボヤ」をおこしてしまった。本当にキモをひやすようなできごとであった。煙突掃除を充分しなかった煙突にすすが溜まってそこに火をもち、おまけにめがね石をおかなかったことが要因であった。何かぱちぱちと音がして目をさましたとき部屋の天井のふしアナが「真っ赤」であったことは今も記憶に残っている。
「ボヤ」ですんだことは幸いであったが、家内がかってでて警察に行ってくれた。教授会でお見舞いを下さるという話があったが強く辞退した。新聞に小さい記事がでたが「狼森部落」の方がお見舞いにみえたことが記憶にある。
その日の夜はとなりの赤石教授宅に四人でとめて頂いたが、子供達の洋服などよく揃えて準備してあったと赤石先生に感心されたことが思い出される。
教室からの弘前大学へ学位提出1号の歯科開業の藤田良甫先生の学位通過のお祝いのビ−ルだった(昭33.8.20.)
昭和33年になって大学院審査のために草間良男先生ら来学された。私にも世話をするようにいわれついて回ったがそのときスナップした写真がいくつかあった。学部長は佐藤煕先生で図書館で本を開架方式にしたなど説明されていた。