海外旅行 その3
ミネソタ大学にて
1965年9月24日、私はミネソタ州ミネアポリスの空港についた。
9月6日羽田発でハワイ・ロス・サンフランシスコ・シアトルと主としてNIHの循環器疾患に関するプロジェクトのある施設を中心にあるいてきた。
ミネソタでの出迎えは岡本登(名古屋・日比野内科)と金子克己(東鉄)両先生であった。事前に色々教えて戴いたいた児玉俊一先生(久留米・木村内科)は帰国されたあとだった。この時のことは「衛生の旅」(Gate27と鍵とKeys先生)に書いた。またはじめの数日間Dr.ストラッサ−の部屋に泊めてもらった話も前に書いた。
金子・岡本先生
Keys先生の研究室は「LABORATORY OF PHSIOLOGICAL
HYGIENE」といって、ミネソタ大学の建物とは別にフットボ−ルのスタジウムの中にあった。その入り口の番号が「No.27」であったので、「Gate number
twenty seven」とは国際的に名をはせており、「循環器疾患に関する疫学」については「メッカ」であった。日本の木村登先生はじめ多くの先生方、私が名付けての「ミネソタ・グル−プ」の方々がこの研究室と関係があり、その後も続いている。
Keys先生から手紙をもらっていたので(はじめ岩手医大宛であったことは前に書いた)、文部省の在外研究員の順番が回ってきたとき、迷わず先生の研究室に長期滞在するという計画をたてて申請した。当時長期滞在のビザには「DSP66」という書類が必要で、先生から「Visiting Professor」とのサインを戴くことができた。それも出発の期日ぎりぎりであったことが思い出される。ヨ−ロッパにも廻りたいと考え、Keys先生の研究室の分室がイタリヤ・ナポリにあったことからそこへ行くとの計画書を書いた。私がイタリヤに着いたときはもうその分室は無くなっていたが。
着いてすぐ研究室への「鍵」を大学の「ポリス」からもらうことから始まったが、スポンサ−が文部省であったから、「なにやかや」研究室でのdutyがあることはなく、全く自分の計画で過ごせることができた。専ら大学の医学図書館、それも整備されたばかりの時であったし、研究室の図書室の資料も自分の研究に関係する資料は殆ど全部目を通すことが出来た。コピ−が漸く出始めのころで、今見ると出来は良くないが、以前と違って手書きで写す苦労はせずに済んだ。それをまとめたのが「グロ−バル」にみた人々の血圧と日常摂取する食塩との関係であったが、それをテ−マに一回セミナ−で2時間くらい喋った。そのとき通知が全学に回ったので学内から色々な方々が聞きにきていた。内科のトビアン先生も。100ドル貰った。そして一回全米心臓学会への出張をさせてもらった。この時はシカゴからマイアミ行きのGrayhoundバスで行った。
シカゴで開かれた自動血圧計に関するミ−テングに参加した話は前に書いた。近くのメイヨ−クリニ−クへ行った話は別に紹介しょう。
ミネソタ研究の話、精神病院での脂肪代謝の研究、図書館のシステム、講義のことなどの大学での話題やスナップショットは沢山あるが、ほんの少し紹介することにする。
ミシシッピイ河がここまできていることは驚きであったが、セントポ−ル市とミネアポリス市の Twinn cityの中間に ミネソタ大学はあった。スタジウムは日曜になるとバスでいっぱいになった。そのスタジウムの前にアパ−トがあった。そこに入ることにした。先年行ってみたらもう壊されて無くなっていた。
大学からミネアポリス市を望んで ミネソタ大学 スタジウムとバス
アパ−ト玄関 郵便受け 小包はぼんと前に置くだけであった
岡本・金子・佐々木・岡本夫人・ストラッサ−
ベットは引き出し方式で、地階にはコイン式の洗濯場があった。電話が備え付けられていたが、私には無用だったので、はずように電話局にたのんだら、「けげん」な顔をされた。
研究室の人々を紹介しよう
テイラ− 岡本 金子 プラックバ−ン 先生ら
秘書チ−フ・フォスタ− サイモン フエッチャ−先生
毎日3時になると「tea time」があった。
インドから来ていた研究生の英語の発音はよく聞き取れなかった。スペインからの研究生は私に向かってプロフェサ−・ササキと言いい、AとOとつづ く「nao」(ナオ)」の発音はよくできた。多くのアメリカ人は「青木功をエオキ」というように発音できず、「ネスケ」といい、もっぱら「ドクタ−ササキ」といわれた。
秘書室にはフォスタ−以下秘書が何人もいた。
当時講師だったブラックバ−ン先生と岡本先生 秘書バ−バラ
図書室にきている女の人は コンピュ−タのプログラムのアルバイトをやっていた。
ミネソタ研究の第一歩は駐車場の確保からはじまり、検査をやり、朝飯を食べ、最後にキ−ス先生の部屋で話をして帰る仕組みになっていた。「わが愛するモルモット諸君へ」の手紙とともに記憶にある。
先生の部屋のドア−にはいつも「じゃましないで」の各国のカ−ドがかかっていた。
教授室のキ−ス先生と被検者
冬の大学生 見回りの大学警察官の腰にあった「鍵」 ミネソタ・キャリパ−(皮厚測定器)
大学全体のスタッフ・ミ−テングがクリスマス近く開かれたことがあった。
ミネソタ大学は国際色ゆたかで、大学祭のone・shotである。
大学図書館 中に入ったら廊下で女子学生がサンドイッチを食べていた。
医学図書館は別にあった。
クリスマスが近ずくと、家々に飾り付けをする。
外国留学生のためのパ−テイもあった。
キ−ス先生の研究室でもパ−テイをやった。MrsKeysも来られた。
Mrs&Prof Keys 挨拶するストラッサ− 「Happy New Year」 とコンピュ−タで打ち出して
夜キ−ス先生の自宅によばれた。
ホストとしてサ−ビスするキ−ス先生 プレゼントをうけるキ−ス夫人 夕食は「Eat Well and Stay Well」よろしく印刷された「メニュ−」が渡された。
キ−ス先生自宅にて
Drフェチャ−の家にもよばれた。夕食のときはロ−ソクをたてて。パズル・ゲ−ムをやった。
ミネソタには山がなく、スキ−は出来なかったが、昔のCCMのス−ト靴を自宅から送らせて、休日には体育館のスケ−ト場へ行った。教会に行かない日本人がきていたが、スケ−ト場はすいていた。
体育館の男便所には「カルチャ−・ショック」をうけた。女のほうはのぞかなかったが。
ミネソタの冬は−20度にもなる寒さであったが、部屋の中は25度であった。湿度は低かった。雪はあまり多くなく、弘前位ふれば毎日休校である。翌日には歩道もすぐ除雪されていた。
パ−キングメ−タ−には袋がかぶせられ、後ろの建物は学生用の駐車ビルである。
デンバ−だったか観光ハイヤ−で一緒だったおばあさん(Mrs Alisa Hoag)がミネソタの住民であった縁で、クリスマスに自宅に招待された。お土産に「津軽ぬりの箸」をもっていった。メアリ−という女の子がいた。「芽有」と日本語を教えてあげた。警察官の奥さんとかの娘がタバコをはなさず良く吸うので、おばあさんに尋ねたら「家庭的になやみ」があると教えてくれた。私がアメリカ・タバコでは「Lark」が好きだと言っていたことを覚えていてくれたらしく、私への「プレゼント」はラ−クのカ−ト一箱であった。がその時は「私はタバコをやめていた」時だった。
近くの湖畔に別荘があるからと誘われた。パンとバタ−とベ−コンとミルクが基本食であることがわかった。日曜日にはおめかしをして教会の礼拝に出かけた。
凍った湖上での魚釣りを楽しんだ。
近くの州立精神病院で脂肪代謝の研究をやっているとかでアンダ−ソン先生に一日ついていった。
この時の精神病者との英語会話はこちらが恥ずかしくなくしゃべれた記憶がある。
今思うとどんな倫理基準でのプロトコ−ルであったかと思うが、栄養士がついて特定の食事をたべさせ、確認のために薬を目の前で飲ませ、特製の便器で便をあつめ、研究室で分析していた。
真冬の朝7時半でも講義は始まっていた。その時間でも学生は席にいっぱいだった。
疫学の講義はタバコ問題大統領顧問団の一人だったDrシュ−マンであった。
アメリカでの報告書をまとめあげ発表した日(1964年)に「自分もタバコをやめた」と言っていた。
シュ−マン先生 講義室
色々なところでセミナ−をやっていた。
毎日印刷される大学新聞をみて、その記事の中で選んで講義やセミナ−を聞きにいった。
初め学部長に許可を得にいったら、本当は受講料をとるのだがとか云っていたが、こっそり聞いて良いと云われた。
少人数の、このときは、「水中からの心電図をとるためにはどんなペ−ストがよいか」が話題であった記憶がある。
帰国後教室での抄読会の知らせを廻すように教授会で発言し、弘大医学部では今日までつづいているようだ。
私の仕事をセミナ−で発表するように云われた。これが私のミネソタでの総決算であり、これが縁でイギリス・ロンドンでの第6回世界心臓学会へよばれたのだと思っている。
招待のはじめの手紙はミネソタ宛であった。
ミネソタを離れる前になってはじめてフットボ−ルのゲ−ムをのぞいてみた。研究室へ入るパスをつかって。
ミネソタを離れるとき、金子・岡本夫妻が送ってくれた。
金子先生 岡本先生夫妻
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