海外旅行
その5 アメリカ国内をめぐって
ミネソタ大学に滞在していたとき、アメリカ国内をあちこち回った。
岩倉具視一行は大陸横断鉄道を利用したようだし、今ならゴルフや野球の選手なみに飛行機をつかって飛び歩くのだろうけれど。
レンタカ−という手もあったが、私はグレイハンドバスを利用して地面をはって回った。
その結果分かったことは人の集まる都市から都市へ、その途中は何もないということだった。
今でこそ長距離バスは普通になったが、シ−トはよく、いくら乗っても疲れなかった。女の子がタバコを口にするのが気になった。
ハワイ・西海岸方面は先に書いたので、東へシカゴ・ボストン・ニュ−ヨ−クまたマイアミからテキサス・グランドキャニオンを回った旅の中で、いくつかのスナップを紹介しようと思う。
ホノルルを離れたときのスライド番号は344で、ケネデイ空港をたって大西洋をわたるまでの4701と撮ったもののほんの一部ではあるが。
シカゴ
自動血圧計のミ−テイングにシカゴへ行ったことは前に書いた。
中村義弘君がシカゴに留学している時だった。
美術館でみた「ドガ」の絵に深い印象をうけた。「Degas」の読み方も分からなかったが、そのあと回る美術館ではドガを中心に見てまわった。
バッファロ−
大学医学部の医局によって、数人の方々にあった。各自無線器をもたされていた。すぐ連絡がつくように。
近くのナイヤガラの滝をみたいと思って事前にビザをとっていたので、足をのばして一泊した。
あとでモンロ−の「ナイヤガラ」を見たとき、土地勘があって面白かった。
ミシガン
ミシガンに西川泰右君がいた。また疫学のDr.Epsteinもいた。ここのスタデイの資料室をみせてもらった。
ピッツバ−ク
ピッツバ−クは何か変化の途中にあった。小泉明先生がいた。
インデイナポリスの夜景は綺麗だった。
ニュ−ヨ−ク
NYに着いたのはクリスマスに近い頃だった。
YMCAにとまった。この時隣のバ−で偶然に東野修二先生に会った話は前に書いた。
悦と同級の上杉さんが北大教授の亀田先生と結婚してNYに来ていた。あちこち案内してもらった。
摩天楼の上は雲にかくれていた。
有名なラインダンスもみた。さすが訓練が行き届いていて足の動きがそろていた。
婦人科の真木正博先生が留学している時だった。
小さいお嬢さんに「おじちゃんの英語はすこしおかしい」と云われた。
眼科の工藤高道先生と十何階かの高級レストランで食事した記憶があるが、スナップはない。
NYというと何といってもDr.Dahlに会いに行ったことが記憶にあるが、前にその出会いを書いた。
夕食に自宅によばれた。しゃれた服装にきがえて。
先生から食塩摂取の観察をされた娘さんたちはどうしていることだろう。
ド−ル先生が亡くなったあと、奥さんが再婚され「ヤッタ」という話は別に書いた。
国連も内部を見学にいった。NYまたワシントンの子ども達の服装は豊かであった。
ワシントン
病院にいた安達実君とすぐ連絡がとれた。
大統領などが良く来る店とかで食事を共にした記憶がある。
ア−リントン墓地へいった。ケネデイの墓に火がともっていた。
ボストン
ハ−バ−ドの公衆衛生学部には広畑富雄先生がいた。
Dr.Stare
Dr.Segall Dr.MacMahon(公衆衛生の原理の著者)と
男だけが入れる女は入れないハ−バ−ド・クラブへ案内された。
ちょっとはなれた(いってみれば板柳位な)ところの町にフレミンガム研究の病院があった。
主任のDr.Dawberは飛行機嫌いだとのことだった。
Dr.Dawber
一番のやり手はDr.Kannelで飛ぶ鳥をおとす勢いであった。ミネソタから行った連中を前にまくしたてた。
食塩のことを言ったら、あとで計算した成績をミネソタまで送ってくれた。平均10gであった。
Dr.Kannel
ボストン美術館で先に車から降りた。東洋美術のコレクションがあった。
キャネル先生は夫人を連れて日本・東北にもきたことがある。籏野先生の案内で。
ボルチモア
ここのジョンスホプキンス大学の医学部へ戦前原島進先生が留学されていたことが頭にあった。
Dr.Lielienfeld Dr.Kuller
後で留学した人から聞いた話だが、講義の中で私のことを喋っていたとか。
ホテルのバ−で飲んでいたら薬屋のプロパ−らしき人と気があって、シイ−フッドが旨いという店に行った。この時だったか別の時だったか、かの有名な「ストリッップ」を見にいった。
マイアミ
今度の大統領選挙で話題になったマイアミであるが、全米心臓病学会が開かれた時、ミネソタからも大勢出かけた。
私はマイアミのYMCAに宿を予約した。
シカゴから行き先がマイアミとあるバスに乗った。
所々バスストップし、食事をとり、運転手はかわり、最終まで乗ったのは私一人であった。30時間位かかったか、北から南へアメリカを縦断した。
着いてみてわかったことは、マイアミと学会場のホテルのあるマイアミ・ビ−チとはバスで1時間もかかるところだった。おかげで毎日往復の1時間バス観光ができた。往きは大抵ホテルへ行くと思われる黒人のメイド達であった。
受付 直亮 吉川教授
東大の医学部に老年学科ができたとかで初代の吉川教授がきていた。
大きなホテルでその後映画「007」などでマイアミが話題になるたびに思い出した。
ビイ−チは「private」であった。
岡本・金子先生
水族館のショウをみた。リスが道で飛び跳ねていた。
ヒュ−ストン
マイアミの学会のあと南廻りにニュ−オリンズをみて、ヒュ−ストンに着いた。
めざす相手はDr.Meneelyであった。
ナイトセ−ルのヨットのあとクラブで御馳走になったシイ−フッドの味は忘れられない。
彼はこのあと学長になったが、後任の教授の推薦状を書いてくれと依頼されたことがあった。うまくいったようだった。自宅に泊まって講義をしてくれと言われたことがあったが約束をはたすことが出来ない前に亡くなった。
南部は南部らしい風体がみられた。出来立てのド−ムが窓から見えた。
ダラス
ダラスでの思い出のスナップはいくつか前に書いたが、ケネデイが撃たれたとかいう印刷所の建物の側を車で通った。
デンバ−
デンバ−で観光ハイヤ−に乗ったとき、昔ゴ−ルドラッシュで栄え、今はゴ−ストになっている町にバ−があって、床に「彼女」の顔が画かれている店があった。
このとき一緒だった婦人がミネソタの方であった縁で、クリスマスのときよばれた。
ソルトレ−クシテイ
「世界塩の旅」の一つソルトレイクシテイへ行った。
今度の冬期オリンピックが開かれるところである。
モルモン教の総本山のある町で、極めてご清潔な町であった。
ここにあるパイプオルガンの音は毎日曜日全米へ放送されていた。
教会の一角に昔の家が保存展示されていた。この土地を目指した人々の生活がしのばれた。
有名な銅山があった。
乾いた土地でいたるところに水をまくスプリンクラ−が回っていた。
ラスベガス
ラスベガスへよった
ホテル代は安かった。安い分だけお金を使って下さいということだと思った。年いったおばさん連中がスロットマシンであかず遊んでいた。
私もやってみた。
頭の上でベルがなった。25セントコインがざくざく出てきた。現金の100倍であった。そばで掃除をしていた黒人が「ヤッタ」ととれる声をあげた。観光バスの時間がせまっていたので、鞄につめこんで離れた。
グランドキャニオン
ニュ−ヨ−クをみてグランドキャニオンをみればアメリカが分かるという一方のグランドキャニオンへ行った。
この下流にフバ−ダムがあった。
ミネソタへ帰ってきて
ミネアポリスの Forcy Tower 上からみると街は大半駐車場であった。
街でカボチャを売り、子ども達はハロウインの化粧をしていた。
アメリカを離れる前に
建国の歴史に出てくるフィラデルフィヤを見に行った。
ニュ−ヨ−クの観光船サ−クルラインにのって一巡した。
PANAMのビルでcheck-inして荷物をあずけた。屋上からヘリでケネデイ空港へ一飛びした。
そしてロンドンへ1966年6月1日から2日にかけて大西洋を横断した。
コンピュ−タ−による「IT」革命を実感した。
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