海外旅行へ
ハワイでの思い出いくつか
文部省の在外研究の機会が与えられて初めて海外へ出かけたのは1965年9月であった。アメリカのハワイが最初の入国地であった。
ハワイでの思い出のいくつかを紹介したいと思う。
当時はJALだけで、羽田発夜10時であった。胸部X線写真を別に手にもっての旅行であったことは前に書いた。
当時としてはまだ海外へ出かけることは困難なときで、外貨持ち出しもきびしく、出張旅費も一日25ドルの一割減額が割り当てであった。子ども達が中学生で、夫婦同伴というわけにもいかず単身の旅行であった。留守宅には俸給はそのまま出ていたが、出来るだけ倹約してとの心ずもりの出張であった。
表紙が緑色の公用旅券であり、出発の日と大西洋を渡る日と帰国の日は、届け通り守るようにいわれていたのでその日付けは守ったが、あとは自由にアメリカ・ヨ−ロッパ中を回った。研究室で仕事をするとか、病院での経験をするという目的ではなく、「世界の人々の生活をみる機会」として考えていた。
でも私の弘前大学での研究がすこしはじまっていて、それは名付ければ「東北地方住民の脳卒中ないし高血圧の予防に関する研究」であったが、その研究成果をわが国で初めて刊行されれるようになった英文雑誌Japanese Heart Journal に書いたらという上田英雄先生からの依頼があったので、英文で「日本人の高血圧と食塩との関係についての疫学的研究」を掲載して戴いた。そのとき今と違って、世界中から別刷りの請求が殺到した。そこで世界のどこで私の仕事に興味をもっている人がいるかのリストがあったので、それらの方々と連絡して直接あって話しあうことを主な目的にした。
アメリカからヨ−ロッパへまわって一年後、1966年9月6日に帰国したのだが、原島進先生から雑誌「公衆衛生」へその紀行記を書いたらと云われた。この時戴いた題が「衛生の旅」であった。
その中では客員・訪問教授という長期滞在のDSP66のビザの証明を戴いたミネソタ大学の「キ−ス先生」のこと、食塩を通じての知人「ド−ル先生」、慢性食塩中毒実験をカリウムとの関係で行った「メネリ−先生」、血圧計の検討を行っていた「ロ−ズ先生」の4先生との出会いの話と「コス島への旅」を書かせて戴いた。
羽田空港には悦と両親・兄夫婦のほか平尾先生、片桐君ら慶應の人、前日弘大東京同窓会が開かれたこともあって、大勢の方々に送られた記憶がある。
「水さかずき」ほどではないにしても、今思うと大勢の方々に送られたと思う。
片桐君ら 平尾正治先生と兄 悦と
真夜中赤道通過ということで手続きをとっておいたら留守宅に証明書がきていた。
眠るまもなくすぐ窓の外の雲が明るくなり全く体内時計の時差の適応のないまま、眩しい陽の光に満ちあふれたハワイの空港についたのは同じ日の午前10時であった。
空港にはDr.Robert C.Moellering,Jr.が出迎えてくれた。
丁度アメリカの循環器に関する疫学研究が始まったばかりの時代であったのでNIH関係のプロジェクトの研究施設が国内(ハワイ・ロス・サンフランシスコなど)にできたばかりで、前に書いた私の論文に興味を示し別刷りを世界中から要求された内の一つになるのだが、ハアイのセンタ−(Hawaii
Cardiovascular Study)に来ていたドクタ−と手紙のやりとりをしていた内の一人であった。
ハワイのあとロス・サンフランシスコ・シアトルとミネソタ大学にゆく前に寄り道していったのだが、その話は後にして、今回はハワイのこと、またその後「高血圧と日本人」に関するシンポジウムが開催された時のことなど、ハワイに関する思い出のスナップ・ショットを紹介しようと思う。
ホノルル・ハ−ト・プログラムの所長はDr.Abraham Kaganであった。
Dr.Kaganには数々の思い出がある。その後何回となく会った。大池弥三郎教授が主催された日本脳卒中学会が弘前で開催されたときの招待講演でも。この時私が座長をして、ハワイで撮ったこのスナップをみせ、その時渡された”慧眼”と印刷されていた名刺をみせて紹介した。ハワイシンポジウムの時にも、空港でレイを首にかけ歓迎され、尾前照雄教授らと山の中腹にあった自宅へ伺ったことがある。部屋を全部みせて戴いたりした。奥さんがイギリス育ちだとか、ハワイの家に”暖炉”をつけていたとか、飲み物の前菜に”すのもの”のサ−ビスをうけたことなど。
夕食には新婚早々のメ−ルリングのアパ−トによばれた。
アメリカははじめてであったし、見るものすべて珍しかった。オリンパス・ペンのそれもズ−ムがでたばかりの時であったので、次から次ぎと撮りまくった。半裁で一本36*2で。ハワイを離れるまで343枚の番号がついている。その全てを掲載するわけにもいかない。
ワイキキの海岸の風景、ゴザをもち、裸足であるく若い人たち、ゴミをひろってあるくアルバイト学生、佐藤貞勝先生の親戚の2世の方々、観光ハイヤ−での一日、パイナップル畑、お寺、ヨットクラブ、公衆便所、建築中のマ−ケット、そして私の泊まったYMCAのホテル等々。
送ってくれたのもDr.メ−リングであった。
彼は後日Dr.Lot B. Pageらとソロモン島の調査(Circultion,49,1132,1974.)に参加していることが分かったので、そのときの島民の血圧の一次資料をPageを通じて1977年送ってもらったことがあった。
二度目のハワイは”1st International Symposium on Hypertension
and The Japanese"によばれた時である。1980年9月20−21日にKauai島のCoCo Palms Resortで開催された。
Proceedingも出ているが、このシンポジウムは金子好宏先生らが計画され、”Nippon
Merck-Banyu”がスポンサ−で開催されたものであった。
「日本・ハワイ・米国西海岸およびブラジルに住む日本人と日系人を比較して、日本人と高血圧に関する検討をする」会であった。
”日本人を考える”ということであったが、参加された方々のその後の活躍とあわせて参加者の名簿をみると日本メルク万有の国際戦略の一環であったのかもしれないと思うことがある。このての会は色々の理由からか第1回、第2回で終わったが、内容は面白く、楽しい会であった。
金子先生
私は「日本人の食塩摂取量と高血圧」を発表した。
川崎 上田 秦 先生らと
家森 小町 先生らと
飯村 平田先生 と
大高 清水 Reed Borhani 先生らと
万有の岩垂英二君(幼稚舎同級)が気をきかしてくれて、加藤・太田君とゴルフを楽しむことができた。
第2回のシンポジウム(2nd International Symposium on Hypertension
and The Japanese)は1982年10月31日−11月1日,Sheraton-Molokaio Resort,Molokaiで開催された。この時のProceedingもでている。
谷川社長らと 成田VIPル−ムにて
実費を払えば同伴も可ということだったので家内も初めての旅を経験することができた。
家森 籏野 国府 尾前 蔵本 金子 先生らと
Langford Kagan Yano 先生ら
この時の発表は「尿中食塩排泄量測定のための濾紙法と疫学研究における応用」であった。
鈴木君と
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