「不二会」とは昭和18年9月慶應義塾大学医学部を卒業した同級生の会の名称である。
第22回卒業のクラス会であるので「不二会」となったと思うが、誰がいつ言い出したかは私の記憶にはない。「不二会」「不二会」で通ってきた。
近く卒業60周年記念の会をもとうではないかという話があるが、永久幹事の野口昌彦君も、「不二会ニュ−ス」や「クラス旅行記」を自ら編集して送ってくれた山形操六君も亡き今、まだ元気な梶原貞信君を中心に服部大三プロの手助けで計画中だという。HPに入れようと思っていたら、来る10月11日パ−テ−開催の知らせがきた。同級生108名も内13名戦死、小泉塾長に送られた三田でとのことである。最後の会とあったから出席しないわけにはゆかないと、返事を出した。
卒業記念にアルバムをつくった。
編集後記に「幾度か難航しながら兎も角アルバムを同窓諸君の手にお渡しで出来ることは、アルバム委員一同の喜びです・・・」と椎名晴夫君が書いている。私も委員の一人であったが、カメラ片手に委員一同で撮った写真があった。
写真屋さんの顔に記憶がある。一番上の北条登君が「22回生、これはこのアルバムにのっている人達、学生生活を、こんなに明るく、希望に充ちて送った人達、南太平洋の戦局正に酣の・・・何時の日か再び此のアルバムを開く時、悦びを、悲しみを共に分かちあふ約束をして、陸に、海に、南に、北に別れていった若き日の感激に浸って下さい・・・」と書いていた。共に海軍軍医になった北条(渡辺)登君だったが、君はこのアルバムを見ることもなく(と思うのだが)一番早く戦死してしまった。先生方の写真やら補導会ごとの写真、など思い出の写真をのせた。
クラスごとにその性格が違うものだと思うのだが、わが不二会は世話人がよかったのであろうよくつづいている。昭和18年11月25日に「不二会報」が創刊されている。ガリ版印刷で今は酸敗で紙はぼろぼろである。応召を前にした加賀信男君が編集したものと思われる。医師免許状の番号が記載され、南に北に赴任した諸君からの便りが掲載されている。第2号は昭和19年2月25日であった。
昭和25年1月の不二会報に、「相野田君死刑の宣告を受く」(婦人科松浦)、慶應大学医学部一同のフィリッピン大統領閣下宛「嘆願書」のニュ−ス。私は「三鷹だより」(武蔵分校)を書いている。「中央線三鷹をおりてバスで医学部前、また吉祥寺をおりてバスで市役所前までゆきそこから武蔵野陸上競技場を横ぎってゆくと、黄色い建物がみえるそれが武蔵分校の正体で、基礎の連中が移ってきたところです。解剖には講師の飯沼、薬理に古藤、田中(大滝)、衛生に佐々木が都会の雑踏をさけて研究に余念がないと思ってくれたまえ。だが瓦斯は出ず、交通は不便で、研究だけでなく、皆さんとの連絡もおろそかになってしまうというのが実情です。あと2年で四谷に帰るという話ですが、そしたら病院のみなさんと一緒にやっていけるわけです」と。
1952年2月第3号とある会報をみると、大きなテ−マとして”モンテンルパ収容所”にいて死刑をまつばかりの相野田啓君助命運動の記事がある。松浦鉄也君がその経過を書いている。会報の宛名は衛生学教室にもどった私あてで、「今年度の寄付金御願いします」と山形君の添え書きがある。「院内の不二会員は次々と減ってゆき、十数以内になってしまった」と細菌学教室にもどた山形操六君が編集後記に書いている。手元の資料をみていたら山形君の随想「モンテンルパ」(予防医学ジャ−ナルNo.109、昭52)に「久しぶりに談合した国井長次郎氏のもとめに応じて、つい昔話を長々と書いてしまったが、・・・それにしても松浦君と私は現在武見医師会長の下で働いている。モンテンルパの糸が、期せずしてつながっている奇縁を思わずにいられない」と書いていた。
昭和28年1月に卒業10年記念号。山形君の巻頭言。「不二会十年の歩み」「会員学位論文紹介」相野田君の「モンテンルパより帰りて」小沢豊君の「十年振りに中共より帰国して」上江洲智秀君の山形君宛の「ハワイ便り」。卒業十年の感想及び次ぎの十年への抱負が書かれていた。私は書かなかったようだ。松浦君の編集後記に「小沢豊は憂国の士となり、相野田は絶対の非武装論者となり、かつての国粋主義者上江洲はハワイの住人になった、卒後20年の会合が楽しみ」とあった。
昭和38年卒業20周年を記念して「不二会アルバム」を作成している。幹事細野清士・川内拓郎・松浦鉄也・佐藤雄次郎・山形操六の諸君である。弘前公園の桜の下での家族の写真を送った。
近況「日本医学会総会シンポジウム”高血圧症”に出演無事すませました。来る40年に第35回日本衛生学会総会を弘前大学にて小生会長で開催する予定です。何卒よろしく」
昭和45年2月の不二会報。近況「弘前大学お前もか、といわれたように、9月に大学の本部の封鎖があり、機動隊導入で一応平常に復しましたが、医学部では御承知のように色々問題がありますので、学生の意見が反映されなかったとし目下スト突入といった事態になりました。8月に大学の評議員になったばっかりに正に矢面に立たされています」
昭和46年10月の不二会報。近況「6月19日弘前大学医学部衛生学講座開講20周年記念講演会を無事すませました。早いもので小生もその中でもうあしかけ17年をすごしました。今この歴史の流れを残したいと出版を計画しています。研究の方も十数年の資料にうもれ、原著も書かなければならず、そのうえ最近は”疫学”が注目され、脳卒中や高血圧の疫学に原稿注文がさっとうし、夏休み返上といったところです。大学受験の特集号に弘前大学の看板教授として紹介されたのはいささか恐れいりますが、ますます責任を感じているところです」
昭和48年12月「卒後30周年アルバム」が編集されている。編集福原晋・長瀬又男君。この時は家族全体の写真はとれず、私52才、妻42才、章19才東海大、修18才武蔵野音大、繁3才の写真をのせた。
昭和49年4月の不二会報。近況「熱海の会で松浦君から”ようお若いの”といわれたけれど、最近とみにうすくなった。そこで一句「長髪でみかけばかりは若づくり」。宴会がはじまり、皆さんがほとんど無関心といってよいほど煙草をぷかぷかやっているのをみて、おどろいた。「禁煙の先取りをして早や八年」アメリカのシカゴの衛生部へ行ったとき部内が禁煙だったので感ずるところがあってのことだが、息子娘の医師の卵に、二、三十年先のことをよく勉強しておくとよいといっておくとよい。これは疫学者の予言である。とにかくきっかけをつくってやめるとよい」
「不二会員諸君」(卒后三十五年を迎えて)(幹事福原晋、福原亀治君)のガリ会報(昭53.1.28)の近況「第8回世界心臓学会での座長と発表、脳卒中・高血圧予防の国際シンポジウムでのラウンド・テ−ブル、二つすませたところです。二十数年かかってようやく”日本の塩の先生”といわれるようになりました。父93才, 母89才在横浜。長男東京勤務、次男ザルツブルグ・モツアルテリウムで音楽(指揮)勉強中。目下家内と小3の三男との三人ぐらしです」
「不二会報三十八周年記念」巻頭言は山形君。佐藤雄次郎君の「昭和19年3月海軍軍医を中心とした寄せ書について」が書かれている。「今年5月初め、母から預かっていた品物を整理していて、この巻物を発見しました・・・」と。雄ちゃんの母上は例の226の事件で名前がでた”幸楽”の女主人である。「昭和十九年三月二十一日不二会春季皇霊祭ヲ期シテ銀座幸楽ニ會スル者三拾八名・・・・」の寄せ書きを母上はよくとっておいたくれたと思う。そのいきさつが書かれていた。
近況「”ねぶた”がおわると、ここ弘前には秋風が吹きはじめます。そして十和田湖畔のもみじもつかのま、冬に入り、春がきて公園の桜がさき、日本の四季をはだに感じ、三十年近くなりました。脳卒中の話、高血圧の話、食塩文化論、そしてりんごの話と、一地方での研究が、日本だけでなく国際的にも関心がもたれるようになりうれしく思っています。かつて昭和49年に、毎日学術賞をもらった時、亡くなった久保義信先輩が下さったえはがきに”輝きぬ りんごの里の学の道”とあったのを思い出します。お互いに”中年期”はすぎたのですが、昔を思いだしさらに又先へ進んでゆきたいと思います(56.8.7)」
1983年昭和58年野口昌彦君の編集による「不二会40周年記念アルバム」が刊行されている。 「山形君から総括的なご教示や・・・・。亡くなられた方々のご遺影・・・。」と。
近況「58年のわが家の正月は、ベ−ト−ベンの第七を聞くニュ−イヤ−コンサ−トにあけました。12月に、次男修が、ザルツブルグでモツアルテリウム音学校のオ−ケストラを指揮して演奏した時のテ−プでしたが、中々若さに満ちた音で、地元の新聞でも好評だったとか。長男章は、これ又音の職人でレコ−ドつくりを東京でやっていますが、私達にとっても初孫も生まれ、元気でいます。従って弘前では、家内と中1になた三男繁と三人で、目下おやじ共々、マイコンに熱中しはじめたところです。写真は,57年11月にハワイで開かれた第2回の日本人の高血圧に関するシンポジウムに参加したとき、アメリカへは初めての家内と一緒にとったものです。小生、大学の停年にあと数年ということになりましたが、そろそろまとめを考えなくては、というところです。日本の塩の先生といわれ、カリウムとの関係も見直されてきて、りんごの先生といわれるよになりました。1月23日(日)のNHKクイズ面白ゼミナ−ルで、”りんごと健康”の2分半のレクチャ−に出演しました。国内の学会のほか、金があれば毎年でも国際学会に出たいといったところです。59年に第49回日本民族衛生学会を弘前でやることになりました。」
昭和62年9月には「不二会台湾旅行」に家内と初めて参加した。春の東京の総会、秋の旅行と毎年開催されていたが、”いそがしくて””金がなくて”が理由で不参加であった。翁啓樵君のきもいりで楽しい会であった。翌年のアメリカ旅行はいけなかった。
平成6年山形操六・野口昌彦君編集によるの「不二会50周年記念アルバム」がつくられた。思い出の写真を送った。
不二会50周年記念パ−テ−編の記録に「朱塗りのお椀とお盆」のことを書いたのだが、浅葉義一君が同じく岡村周諦先生の「朱塗りのお椀と朱塗お膳」の講義のことを思い出の中に書いていた。「お椀」というより「お膳」のほうがより正しい表現ではなかったかと思う。でもあの場面の記憶が私だけでなかったことを知って嬉しかった。「久しぶりにみた銀杏が大きくなっていた」と書いたのだが、日吉の学生時代にとったアルバムを思い出した。それが写真1(昭和14年、日吉にて)である。杉山、溝口、北畠、永野、水野、山田そして家田君である。赤倉山荘へスキ−に行ったときのスナップが写真2(昭和14年12月、赤倉にて)である。池田、家田、松浦そして飯沼君である。写真3(昭和16.3.26.聖路加にて)は卒業を前にして聖ルカ病院へ勉強に行ったときのスナップである。岡本、河野、杉浦、私そして山形君である。川内君も一緒だった。何千枚もある写真から思い出の写真を3枚選んでみたのだが、その一枚一枚に何千字におよぶ思い出の記を書くことができよう。でもここではしずかにながめ、亡くなった諸君の冥福を祈るだけである。「りんごと健康」「食塩と健康」(共に第一出版)の次ぎに、弘前の津軽書房から「解説・現代健康句」を出版することができた。また先日NHKの健康プロジェクトチ−ムによる健康番組「肥満・高血圧・ストレス」の高血圧の中で、「高血圧の研究では知らない人がいない位い有名な」というナレ−ションのあと、青森は津軽のリンゴ地帯の風景が展開されて、食塩が悪いのは今や常識になったが、リンゴなど野菜・果物のカリウムが高血圧に良いとの説明がされていた。そして弘前大学の研究によればということで、私が35年も前に血圧を測定している姿が写しだされていた。わが家へ取材にきてアルバムの中から私が写っているのをさがしたらたった一枚しかなかったのである。
丁度卒業50年ということで「義塾」から卒業式への案内がきて、久しぶりに日吉へ足をのばした。その日の夜帝国ホテルで「不二会50周年記念パ−テ−」が開催された。進行司会は折井正彦君で、その記録を山形君がまとめて後日戴いた。それに「朱塗りのお椀とお盆」を書いたのである。
平成9年5月弘前で不二会旅行が行われた。「野口君から電話があって・・・」とその旅行記をまとめてHPに入れた。よき思い出である。(20030812)
追加
平成15年10月10日、卒後60周年記念のクラス会が、思い出多い三田の山で開催された。世話人幹事の梶原貞信君から当日の記念の写真を送ってきたので入れておく。