海外旅行

 

その6 ヨ−ロッパ一巡り

 

 1966年6月1日から2日にかけて大西洋をPANAMでわたってロンドンに着いたときの話は「ロンドンの名所」に書いた。

 

 Dr.Roseに会い、”John Snow の Broad Street Pump”のあとを確かめたあと、見物してまわったが、ロンドン塔の宝物殿に飾られたいた”Salt Cellar”を見たときの感激は忘れられない。

これがその後の「世界塩の旅」のはじまりであった。

 

 ロンドンから空路コペンハ−ゲンへ。あとはアメリカで購入した「eurailpass」(一等車2月通用175ドルのユ−ロパス)と「COOKS CONTINENTAL TIMETABLE」の時間表をたよりにストックホルム、オスロ−。フェリ−でドイツへ入ってハンブルグ、チュ−ビンゲン、ロ−テンブルグ、ミュンヘン、ウイ−ン、ライン下りをして、ボン、ケルン。オランダのアムステルダム、ハ−グ、ベルギ−のブルッセルでちょと下車、そしてパリへ。空路スイスのジュネ−ブへ。また汽車でインタ−ラ−ケン・ユングフラウ、チュ−リッヒ、サンモリッツ、ルガノ。イタリヤへ入ってミラノ、ベニス、フィレンチェ、ピサ、ロ−マ、ナポリ、カプリ、ポンペイ。地中海の沿岸をはしってスペインのバルセロナ、マドリッド、トレド。また荷物を置いていたロ−マへ戻ってアテネへ飛んで、

コス島への旅」へつづくヨ−ロッパ一巡りの旅であった。

 この間約2か月、よく回ったものだと今思う。

 イギリスを離れてからは、専ら見物であったが、数日で変わる「通貨」はユ−ロの出来る前のス−ベニヤとなった。ドルは使えたが円はまだという時代だった。

オ−テル」は帰国後私の創った言葉だ。

 その後ヨ−ロッパには1970年にロンドンでの世界心臓学会1981年のエヂンバラでの国際疫学学会、1982年のモスクワでの世界心臓病予防学会に出かけた。それぞれ思い出はあるが。

  スライド番号はロンドン到着が4721で、アテネ着の8317になっていた。

 よく歩き、よく撮ったものだと今思う。

そのショット一枚一枚にシャッタ−を押した時の思いがある。

その中のいくつかは「思い出のスナップショット」にのせたが、以下いくつか道順にしたがって紹介しようと思う。

イギリス

 PANAMでアメリカへ患者をとどけてのロンドンの医師と一緒になった

いんぎん丁寧のタクシ−の運転手にトランクを運んでもらってロンドン市内中央のYMCAの宿へがイギリス・ロンドンでの第一歩であった。

 

観光バスにのったら 議事堂 バッキングハム衛兵交代へ

 

テ−ムス河からみたロンドン橋とロンドン塔 この中に宝物殿があり、王冠があり、塩の入れものがあった

  

市内に何千軒もあるパブ  家の前に牛乳が配達されていた(アメリカでは見られなかったが)

公園で有料ベンチで陽をあびる人達  ガス灯のある通り

   

ポストと切手自動販売機  地下鉄切符自動販売機  スコッチ織物の店

   

山高帽とステッキのイギリス紳士  地下鉄でどこにでも行けた BANKという駅

ピカデリ− この通りからソ−ホ地区へ行き「ストリップ」をみに行った

また「John Snow」の疫学記念の場所へ

  

ウンザ−城へ

エヂンバラへは汽車で往復した ここの子の顔にはソバカスが多かった

  

コペンハ−ゲン

チボリという娯楽場があった 夏の夕 にぎやかに皆楽しんでいた パチンコはなかったが

  

街の風景  女の子  男の子

  

有名な人魚の像を見に行った 案外小さく 海岸のそばにあった 海上からの見物人

  

公園を歩いていたら子ども達がなにやらやっていた タバコをのんでいたのには驚いた

 

 駅 ここから ユ−ロ・パスをつかて ヨ−ロッパ一巡りがはじまった

すこし行ったとき 駅に自転車の荷物があった

  

ストックホルム

街には 尖塔のある塔が目についた 夜は白夜であった

  

冠のかざりのある橋から  地下鉄の壁は綺麗だった

  

オスロ−

裸で日光をあびる人々  魚やの店   サキソホンを吹く女   アイスクリ−ムを食べる女  

   

夕方 彫刻で有名な公園へ行った

  

フェリ−にのって ドイツへ

ハンブルグの駅についたら 偶然にも老年医学会に来ていた西川慎八教授夫妻にあった

 

私は学会には出ず 細菌学の飯塚先生のフォルクスワ−ゲンで ミュンヘンまで案内してもらった

途中古い城をみたり ドイツの宿へ泊まったり

  

中世そのままのロ−テンベルグの町をみた

  

アウトバ−ンを飛ばして(私は運転しなかったが) 映画未完成交響楽の麦畑を思いながら

ミュンヘンまで

  

めざすは「ペッテンコ−フェル」の墓であった

  

ウイ−ン

駅前のホテルに泊まった 鏡のような綺麗な街だった ド−ムがみえてきた

    

”会議は踊る”を思いながら 部屋の暖房のしかけと考えた

  

ライン下りの船にのった  食堂でワイン一本あけた  歌にあったロ−レライの岬をみながら

    

ケルンでちょっとおりた  ゲ−テの記念館があった

  

オランダ

オランダへ入った ヘ−グの街の石だたみ  自転車の人々 色々な標識

ミニチュア−の街 などあった ゴッホ美術館・古い解剖の絵が記憶にある

   

   

ベルギ−

小便小僧の像をみるために ブルッセルへおりた 隣にレ−ス編みの店があった

    

パリ−

北駅前のホテルへ それも屋根裏の安宿で 一日千円位だったか しかし清潔で うわさの「ビデ」がついていた

  

地図をかたてに地下鉄を利用して10日間歩きまわった

交通巡査 マロニエの葉のしげる公園をあるいていたら 白いエプロンをかけた叔母さんが番をしているトイレがあった チップで生活しているのかと思った

    

エッフェル塔の下まできたら 鉄骨が大きいのに驚いた

ル−ブル ノ−トルダム シャンゼリエ 凱旋門 オペラ座 モンパルナス ム−ランル−ジュ などなど

ベルサイユ宮殿へも行った

  

今はなくなった市場を見に行った 大きなチ−ズが目についた

スイス

ジュネ−ブへは簡単に一飛びだった 空からヨットハ−バ−が見えた

  

WHO訪問

レマン湖に虹がかかっていた

        

WHOの循環器疾患専門官の Dr フェイファ−に会い 食事を共にした

  

車掌さんのカバンがめについた 登山鉄道にのりユングフラウへいった

女の子が本を読んでいた ガラスの点は窓をあける為の取っ手であろう

    

家を建てるとしたらこんな家をと思った

      

法医の清水君に一日案内してもらった

 

ルガノで一寸下車した  綺麗な湖と街だった 銀行で100ドルと金貨を替えることができた どうやって日本に持ち帰ることができるかと考えた

イタリア

イタリヤへ入って ミラノで一寸下車した

    

ベニスの駅についたら ゴンドラの客引きが出迎えた

   

    

フロ−レンスへ泊まった

  

屋根の赤いのが印象的であった ビ−ナスの誕生さながらのかわいい女の子がいた

 

ピサで降りた 駅をでたら すぐ斜塔がみえた

  

ロ−マの「終着駅」へついた 駅前の安宿をとった だが階段は大理石でできていた

 街の噴水が目に入った ロ−マの水道を思った

 

街をあるくと ちょっとした家の中庭に 歴史を感じた

 

独立国バチカンへ 教会の屋根まで登ってみた

  

ロ−マの浴場で フラカストロのシフィリス(梅毒)を思った

 

アッピア街道の先に 地下のカタコンベがあった

 

「お−それみよ・・」の歌にひかれてナポリまで足をのばした

洗濯物がならび 極めて不清潔な街にみえた

ながめのよい丘の上にカメオ細工をしている店があった 目の前でほっていたのをお土産にかった

  

カプリ島が遠くにみえた フェリ−でわたり一泊した 青い海の色は格別だった 

青の洞窟をみるため

 帰ってきたあと「観光地の条件」を書いた

  

ベスビアス火山の噴火でうもれたポンペイを見にいった

いろいろなものをみたが 「卍」じるしの模様があった

  

 

ロ−マの宿にトランクをあずけ 地中海の沿岸をひた走り スペインへ向かった

オリンピックがあったバルセロナでみるものはコロンブスの像であった

台座に物語のはめこみ板があった

  

闘牛をみたいと思ってホテルのフロントで聞いたら切符があるという

夕方からはじまった 闘牛士がかっこうをつける姿 ハンカチをふる観客 牛をかたずけるところまで スナップした 

終わったのは午後8時頃だったか ホテルに帰って食堂に入ったら 一人だった

夕食には早すぎたということが分かった

  

マドリッドの公園にドンキホ−テの像があった

   

トレドまで足をのばした エルグレコはギリシャ人という意味だと知った

カスタネットをお土産にロ−マまで帰り 「コス島」へ行くためにアテネへ飛んだ

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