「コス島」覚書

 

 「衛生学の講義はコス島への旅から始まる」と書いたことがある。今回はその「コス島」についての記憶をたどってみたいと思う。

 私が「コス島」のことを知ったのは、今思うと「永井潜:哲学より見たる醫学発達史、杏林書院、昭25」を読んだときではなかったかと思う。昭和31年に衛生学を担当することになって講義の準備で教室にあったこの本を読んだときではなかったかと思う。

 東大教授で日本民族衛生学会を創設され第1回から4回にかけてまたその後も会長をやられた永井先生に直接お目にかかったことはないが、この本の緒言は「題して(哲学より見たる醫学発達史)といふ。蓋し、基礎醫学の一大中心とも称すべき生理学発達の歴史、言を換えていへば、生命に関する思想の変遷並びにこれに伴ふ一般醫学進歩の歴史を叙説し、併せて、その哲学に対する関係を述べんとするのである」で始まっている。そして古代に於ける醫学と哲学の中の古代希臘の概説に「アスクレピア−デンと称する醫師団が、宗教とは無関係に、醫育機関をめぐって発達するに至った。該醫育機関として有名なのは小亜細亜多島海の一小島コスKosと、その対岸にあるクニドスKunidosであった。大醫ヒポクラ−テスは、実にコス島のアスクレピア−デン中から興起したのである」とあった。本に引用文献が掲載されていないので分からないのだが、「本書は、明治四十年十一月恩師大澤謙二先生の在職二十年祝賀の式典を挙行に際して、その記念として、匆忙執筆せし小著(醫学ト哲学)を骨子として、改訂増補を施せしものである」「謹みてこの小著を恩師大澤譲二・MaxVerworn先生の霊に捧ぐ」と書いてあり、欧州の文献を読んでのものであろう。

 「ヒポクラテス全集」のことを知って、その日本語訳(今裕訳編:岩波書店、1931.)が弘大医学部図書館にあるのを確かめたことがあった。今は復刻版もあるが、先日「食塩と健康」の中で「ヒポクラテス医学と食塩」を書くとき改めて全文に目を通した。

 昭和34年第15回日本医学会総会が東京で開かれた時、小泉信三先生の特別講演「医道の倫理」の中で、コロンビヤ大学の創立三百年記念の卒業式に招待され列席されたとき、各科の卒業生に免状を与える際に、医業に携わるものだけにはヒポクラテス宣誓という厳かな儀式を行って後に免状を与えていたことに忘れえない特別の思いがしたことを述べられたが、このことが私の記憶に残った。

 昭和38年に科学技術庁資源調査会の専門委員に任命されたとき、会議の配布資料として委員の一人田多井吉之介先生翻訳の「R.デユボス:健康の発達史」を読む機会があった。この翻訳資料は後日昭和39年に紀伊国屋書店から「健康という幻想」として刊行された。 この資料の中に「ヒユギエイアとアスクレピオス」の章があった。この健康の神々についての文章に特に印象づけられた。丁度日本衛生学会を弘前で開催することの準備にかかっていたときでもあって、会長挨拶の中で引用して述べたことを思い出す。

 「医学の父」といわれるヒポクラテスのこともあったが、ギリシャ人の願いでもあったヒユギェイヤに惹かれるものがあった。「理性に従って生活する限り健康にすごせるのだ」という信仰に惹かれるものがあった。R.デユボスの原著(Rene Dubos:MIRAGE OF HEALTH)を求め、理性と訳されている元の言葉として(reason)が用いられていることも確かめた。「健康は事物の自然の規律であり、生活を賢明に統御しさえすれば可能になる積極性をもっている」という点に思いをよせ、日本衛生学会長としての挨拶の中で衛生学をその理の追究におくと位置づけた。

 ギリシャの神々の像の中にあるヒユギエイヤの像がアスクレピオスの娘として位置づけられていることを「ヒユギエイヤは、すぐさま従者の一員に地位を落とされ、娘となっているいることが一番多いが、妹あるいは妻になる場合もあった」というデユボスの見解も印象的であった。

 ギリシャでは彼女の像は「美しい環境にある健全な生活という美徳、すなわち健全な精神は健康なからだに宿るという理念を象徴しつづけた」が「ロ−マでは、彼女は一般の安寧を守る神のサ−ルス(salus)として知られるようになった」とあった。詩人ユウエナ−リスが有名な「mens sana in corpore sano」(健全な精神が健全な身体に)といった話は「解説現代健康句」に書いた。また「natura sanato, medicina curat」(自然は健康にし、医学(医師)は治療する)という言葉があったことも緒方富雄先生から戴いた「医学のなかのラテン語・語原ギリシャ語法」(医歯薬出版,昭57.)にあった。 

 ヒユギエイアは現代ギリシャ語の発音では「イヤ」となり、イヤ・スウとかイヤ・サスというのは「あなたの健康のために」という意味で、乾杯の時にも使うが、日常の挨拶にも常用されるといわれる(松平千秋:月刊健康,1,'78.)。衛生のペ−ジにある中路重之君の紀行記(http://133.60.238.51/~hygiene/j5/kos.html)(~チルダ−は上つけ)にも「イギアと発音するらしい」と書いていた。英語の語源辞典には「hygiene」は「hygienos=healthful,TheGreek goddess of health was Hygieia or Hygeia, the mythological daughter of Asklepios.the god of medicine.)とあった。私が「コス島への旅」の中で「ハイジェイア」と書いたのは、英語読みをとったのではなかったかと今思う。

 「衛生」の言葉は「局名」として長与専斉が荘子から取った話は前に書いたが、ペッテンコ−フェルがミュンヘンに初めて「Institute fur Hygiene」(furのuはウムラウトu)つくったとき、わが国ではヒギ−ネに衛生をあてはめた。

 「アテネの博物館には、たぶん紀元380年ころにつくられたと思われる美しい大理石の顔がある」は有名だが、私は見ていない。華表宏有君のホ−ムペ−ジ(http://center.seirei.ac.jp/kahyo-o/)の中の「ハイジェイア物語」に「ガラスの箱に入って飾られている」写真や「WHO本部前」などの像が紹介されている。野村茂教授も「ル−ベンスの描いたハイジア像」を書いていた(月刊健康,1,'82)。大森安恵教授が「Hygiea-Martrie Animo Curantヒギエイア−母の心で医療を」が国際女医会のシンボルマ−クであることを書いていた(新薬と治療,38(327),1988.)。また彼女はわが国では「衛生の女神」として知られていた。

 第一生命が創設した「保健文化賞」の副賞に「衛生神彫金飾額」があることは「モダンメデイア(3(3),No11,1957.)」で知っていたが、昭和39年度に西目村が団体表彰を受けたとき見せてもらった。後日昭和61年度に私も戴くことになった。それは日展審査員の信田洋氏の「衛生神」の作品であったが、私としてはコス島で彼女の像を見たあとであったので、それほどの感激はなかった。 

 昭和39年7月、文部省の在外研究で出かける前にあたるが、慶應医学(41巻380頁)に、先輩の篠田秀男先生が「医聖ヒポクラテスゆかりの歴史的老樹プラタナスについて」の記事を話題欄によせているのが目に入った。

 篠田先生は直接は存じあげないが、昭和2年慶應義塾大学医学部卒(5回生)(旧姓桜井)で、山形市の篠田病院院長であった。後日先生が「山形医師会たより」に昭和44年から45年にかけて(1-3)の記事を寄稿されていることがわかり、山形大新井宏朋教授の手を煩わしてそれをみることが出来た。その中で先生が「大正9年の頃、初めて創立された官立山形高等学校に私が第1回生として入学した当時、医聖の名句を覚えたのが病み付きのはじまりで」と書かれていた。医聖の名句とは例の「人生は短く芸術はながい」のことで、このギリシャ語の原文にあたり数十年かかって「人生は短く芸術は永し。機会は逸し易く、経験は欺き易し。実に判断は難きかな」にたどりついた話が書かれていた。

 このヒポクラテスの箴言の意味の解釈には諸説あって色々論じられているが、私なりに「ヒポクラテスに聞いてくれ」と書いたこともあった。箴言(しんげん)といわれることが多いが、弘前大学医学部創立50周年記念のとき作成したビデオには「金言」とあった。係りの佐藤真君に調べてもらったら、作成した電通の方がブリタニカ百科事典にあった医学史の項からとったとのことだった。

 日本衛生学会をすませたあと、昭和40年9月6日から一年間文部省からの発令によって在外研究の機会が与えられた。アメリカからヨ−ロッパへ回ったあと、出来たら「コス島」へよってみたいと考えていた。

 今でこそ本屋にゆくとギリシャの観光案内・旅行案内、それも日本語の本があって「コス島」のことの概略がわかるが、30年前にはほとんど手がかりはなかった。

 パリにいたときだったか、「8days”DO-AS-YOU-LIKE”to the unknown paradaise island of COS Greece, it's a Viking Tour」というパンフだけ手にはいった。読んでみると「local museum」があり「plane tree of Hippocrates」があると書いてあった。博物館には「a well preserved statue of Hippocrates and one of Hygeia, daughter of god of medicine, Asclepeios」とあった。もしかしたら「衛生の女神」といわれてていた彼女に会えるかもしれない。こんな気持ちからアテネの外港ピレウスから船に乗って「コス島への旅」に出たのである。

 「衛生の旅」とは帰国後、雑誌公衆衛生にその旅行記を書いたらと原島進先生からのお話があった時に戴いた題であった。「疫学者」として症例報告はしたくないなどと書いたが、「コス島への旅」など5編を書いた。その後「衛生の旅」の随筆集を私書版として出版したときにこの題を使わせて戴いた。今になってみると「衛生の旅」は私のトレ−ドマ−クになった。

 昭和46年第18回日本医学会総会が東京で開かれた時のシンボルマ−クはヒポクラテスであった。学会の世話をされていた緒方富雄先生から話があって、私が撮ってきた写真が展示されたことがあった。緒方先生とは縁があって助教授時代から存じあげていたが、先生はまだその時はコス島へは行かれたことはなかった。私の撮ってきたスライドを見せてあげたのだが、その中の数枚が展示されたのである。

 緒方先生は先生らしく、「ヒポクラテスの木友の会」(1971年10月1日発足:会報第1号事務所財団法人緒方医学化学研究所)をつくられ、日本にあるヒポクラテスの木の各株の戸籍をしらべ、総ざらいを「いちょう」(緒方富雄:ヒポクラテスの木,1(2),1970.14(2),1984.)に連載された。その中の一株が弘前大学医学部病院の玄関前に植樹された話は鵬桜会報31号に書いた。

 また「ヒポクラテスの会」(1977年7月1日)もつくられた。「コス島訪問」を何回か計画された。

 1976年にコス島へ行かれた映画監督の石松直和氏から数々の写真を後日戴いた。藤原元典先生らの編集による「総合衛生公衆衛生学」(南江堂)が出版されるようになったとき、ヒポクラテスの像(篠田先生によると、おそらく古く紀元前4世紀につくられたもので、1929年7月に発掘されたものとのことであり、先生がいかれた時は写真をとることは禁止されていたそうだが、私のときは自由に撮らせてくれた)は私の撮ったもの、ハイジェイヤの像は(この像は写真をとることが禁止されていたのを、外にでてきたあと、ズ−ムを最大限活用して撮った。私のは「ぬすみ撮り」だったので)石松氏の写真を使わせて戴いた。また衛生学の菅原和夫教授らが雑誌「体力・栄養免疫学雑誌」をつくられたときの表紙にも使わせて戴いた。医学部の衛生学教室のペ−ジに出てくる「goddess of health」はその写真をもとに三上聖治君がphotoshopで細工したものである。第64回日本衛生学会が弘前で開かれたとき会長の菅原和夫教授が玉川寿晴氏作の「衛生の女神」の像を披露した話は前に書いた

 この女神の像の由来ははっきりしない。コス島での出土とばかり思っていたが、確かめたことはない。昔のコス島のアスクレ−ピエイオンの神殿にヒギエイヤの像があったとの記載(ギリシャ・エ−ゲ海:ブル−・ガイドブックス、実業之日本社、1980.p316.)もあるが、最近出版された「医神アスクレピオス:カ−ル・ケレ−ニ著岡田素之訳、白水社、1997.p89.)に掲載されていた写真は私がコス島の博物館でみたものと同じものと思われるが、説明には「ロドス島出土」とあった。

 コス島の市長が昭和52年に訪日されたときヒポクラテスの会は歓迎の会をもった。私は都合がつかず参加できなかったが、後日緒方先生を通じ、市長からの「コス島訪問記念」の「ヒポクラテス箴言」(ギリシャ語・ドイツ語・英語版)三枚戴いた。私の衛生学の時間にその英語版の翻訳を宿題として課したことがあったから覚えておられる方もあるかもしれない。また緒方先生は杉田玄白いらい江戸の蘭学者に知られていたヒポクラテスの絵などを検証されて「日本におけるヒポクラテスの賛美」(日本医事新報社、昭46.)をまとめられた。

 昭和60年5月弘前市で第86回日本医史学会(会長松木明知助教授)が開かれた時の懇親会の席上古川明(ふるかわ・あきら)先生とお会い出来た。先生は昭和3年卒の先輩であるが、昭和61年医歯薬出版から出された「切手が語る医学のあゆみ」を戴いた。この中で「医神アスクレピオス」ほか医学に関係のある神々の中に、「ヒギエイヤ・Hygiea・Salus」(ヒギエイアのラテン名はサ−ルスSalusでとあった)などヒポクラテス時代の医学の解説と共に多くの切手が紹介されていた。世紀末有名なクリムト作のヒギエイアもあることを知った。また1960年生まれた「国際ヒポクラテス財団」のことも紹介されている(医学のあゆみ,112,517,昭55.)。

 デユボスが「Here lies Hippocrates who won innumerable victories over disease with the weapons of hygiea:衛生の武器をもち、病気に無数の勝利をおさめたヒポクラテス、ここに眠る)と書いていたが、その墓はまだ見ていない。

 緒方先生の資料の中で、コス島訪問者またヒポクラテスの木(原木)を訪れた日本人としての記録の中に、「1.篠田秀男氏 1955年12月23日、2.佐々木直亮氏 1966年7月31日、3・・・」 とあるのはそんなわけである。(991116cos)

(弘前市医師会報,269,77−80,平成12.2.15.)

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