脳卒中や高血圧の疫学的研究を展開し、その予防方策を考え始めた昭和29年以来、食生活の中の「お米」の問題は絶えず頭の中にあった。
自分としては「ほとんど学問的には解決された問題」との意識があって、「過剰食塩摂取の問題」へ入っていったのだが、ここに「お米をめぐる話」の「覚書」を書いておこうと思う。
「学問的に分かってしまった、もう疑問がない」と思われる事柄については、それがどう日常生活に生かされるかは問題だとは思いながら・・・さらに追究する意欲がわいてこない。CO中毒の研究から脳卒中の研究へと転換した時のことを思い出す。この点は「科学者」といわれる「学者」がいつも世の批判にさらされることとは思うが・・・。
「お米」から「日本酒」がつくられる前段階に「お米」に生えた「かび」「こうじ」が一役かう話があるが、「酒は百薬の長か」の中ではふれなかった。
私にとってはこの「米にさく花」「こうじ(麹)」の記憶は「母」とともにある。
それは私が小さい頃わが家自慢の「漬け物」の思い出とつながる。母が大根とかぶを影干ししたあと、「麹」と共に(塩も入れていたと思うが記憶にない)大きなおけに漬けていた。出来上がったとき麹にまみれた漬け物は自分には極めて「美味」でその歯触りと共に記憶にある。「父」がそれを重箱にいれて決まって「三井さん」などにとどけて喜ばれた話、古くなってすこし酸っぱくなったあと、細かく刻んで「お茶づけさらさら」と食べたことなど。
後に「みそ」の「豆と塩と麹」との割合を全国的に調査したときの、「てまいみそ」を知ったこととつながる。
医学部へ入り信濃町へ通うようになったあと、大学病院のすぐ前に「食研」(食養研究所)があった。昭和12年幼稚舎の生徒の夏季林間学校が赤倉山荘で開かれたとき、その健康管理を受け持っていた予防医学教室の先生方に学生時代について行ったこと、その食事の世話を食研の方々がやっていた。その食研は、日本の人口と食糧問題解決の為に益田孝氏など財界人からの寄付によって大正15年竣工と書かれているが、日本の脚気問題が背景にあったのではないか。趣意書には「適当なる主食なりと信じて常用しつつある白米が、時に脚気の病因となることを簡明す・・」と日本栄養学史(国民栄養協会)にあった。できた時の主任は大森憲太助教授であったが、私が専門に進学したときには大森教授であった。先生は内科の本を書いた時だったか、毎日の講義がその本をただ読むだけの講義で、皆で文句をつけに行ったことなど思い出される。大森先生はすでに1936年(昭和11年)に「食餌療法」の特別講演をされており、その成果は「食塩と健康」を書いたときに引用した。
「江戸わずらい」から「脚気」が日本の問題だったこと、内科診断学ではまず「しつがいはんしゃ(膝蓋反射)」があり、ゴムのついたハンマ−があり、どうしたら本人の意識をぬいて反射をうまくだせるか考えたものである。
「近代の脚気病因研究のあゆみ」(大森憲太)を読み、「今は昔陸海カッケ大相撲」(筑波常治)を読み、海軍の先輩の「麦飯男爵高木兼寛」を知り、森林太郎の「日本食論」を読み、「日本独自の研究をやりたまえ」と鈴木梅太郎先生が「アベリン酸」(オリザニン)の発見を「ビタミン」命名前に報告した話を読んだ。
「栄養素」の概念がひろがると、未知の病気との関係が追究される。
ABC・・と、さらには番号などつけて、化学名になるまで・・時間が経過している。そして「ビタミン」全盛の時代を迎えるのであるが、小説「細雪」に「Bたらん」といったせりふがあった記憶がある。「玄米パンのほやほや」といった言葉も記憶にある。
昭和のはじめころ「胚芽米論争」があった。そして「国民食」「玄米食」「麦の国、米の国の優劣」「配給制」と戦時色を強めてゆき、戦後食糧難時代になるのである。
「アリチアミン」を発見された「アリナミンの先生」藤原元典先生の父上の九十郎先生が大阪市立衛生研究所栄養部に若干28歳で迎えられたとあった。今話題の「知的財産」を「私」しなかったと聞いたのは親ゆずりかと思ったりする。
「ビタミン学会」の誕生。そしていつだったか学会で活躍されていた阿部達夫先輩がテレビで「ビタミン総合剤を飲めば全て解決!」といった意味のことをしゃべっていた記憶があるが、立場が違えば意見も違うものだと思ったりした。
昭和25年国立公衆衛生院で勉強していた時、日本に栄養学(logyie)の確立をめざして大正3年に私立栄研を設立した佐伯矩先生の「each meal perfect meal」の講義を聞いたことは深く記憶に残っている。先生は世の中に「胚子米」(胚芽)を提唱したことで知られている。すなわち「胚芽には、各種栄養素が多くあるのでこれを脱穀、搗米の間に落ちてしまうのでこれを落ちないように搗いて食べるべきである」という意見であり、さらには「七分搗き」を奨励した。「搗く」という言葉が用いられているのは昔「搗く」ときに「珪藻土系の房州砂」を用いていたからである。
それ以来「麦の精白」「米の精白」は問題だと思うようになった。
このことは「りんごと健康」の本の中の「食物繊維」の章で一寸ふれた。繊維といえば今話題の繊維が少なくなったことは弘大第一内科の研究によれば日本人では「お米」を食べなくなったことと関係があるという。
幼稚舎生の時久保田武男先生に連れられて「製粉工場」へ見学へ行ったこともあった。製粉は当時の新興産業であったのであろう。
「脳溢血の成因を求めて衛生学的研究」をやられた近藤正二先生はその成因として「お米の大食」(一日七合以上)をまずあげられた。高橋英次先生は東北農村で衣食住の実態調査をされ、米による熱量の大きいことを示された。水田単作農村における耕作面積や畑作面積が指標になったが、それらをまとめた伊藤弘君の論文「野菜不足が問題なのでないか」「米の大食は食塩過剰摂取をともなう(近藤)Na/K比の実測値もある(佐々木)」は高橋先生の手で東北大学からの学位論文になった。次いで「中年期脳卒中死亡率」(武田壌寿)の論文がまとめられた時には弘前大学で学位審査権ができたあとであった。
これらの研究の中で「お米」についていえば、青森県の津軽と南部の差、また時代的推移を知ったことであった。
昔は米など食べられなかった。病人が死にそうになったとき枕もとで「米」をつつにいれて振ったといわれる「振り米」の話を聞いた。後日現物は四国へ行ったときの農村での資料館で見た。昔はひえ・あわの「雑穀」「かでめし」が日常普通であったが、戦時中の「米の配給制度」で「精白米」が一般化した話があった。それで昔長生きの人もけっういたがこの頃「脳溢血」も多くなったという話があった。粗死亡率ではなく中年期脳卒中死亡率で実証した。「ライフスタイル」との関係を追跡的疫学調査で検討し食生活への指標を求めた時われわれは「ご飯一回に1-2杯、3杯以上」とわけた。時代的推移が見られたが血圧との関係は「酒」「りんご」と違って有意ではなかった。この指標は東北地方内だけの調査ではよかったが、「お酒一日一本」と同じく「お茶碗」の大きさも地域差や時代的推移があり、「ごろはちちやわん」という大きな茶碗をいう言葉があることも知った。
林髞先生(慶應生理学教授で私の学位論文副査:木々高太郎)が脳機能の生理学的研究から「米を食べるとバカになる」といった話をされたが、「当のご本人はそのスピリットが大変おすきである」と座談会でひやかされた話があった。この「バカになる」話が世の中に広まったとき、それではと全国米穀配給協会の方々が「ラジオ番組」のスポンサ−になって日本医師会の企画で「米食民族の国民栄養学講座」(日本短波放送)をはじめた。その中で私の「米より食塩が」の説がお気にめしたのか小町嘉男先生との対談が放送されたこともあった。
「ビタミン」と云われるようになる栄養素の概念の中の「ビタミンB1」(サイアミン)が判明して以来、「お米」が悪いのではなく「食べ方」が悪のだということになる。ところがビタミン剤ができるとそれをおぎなえば「脚気」はなくなる。色々な食物の中のビタミンが測定されるようになった。 事実世の大勢としては、特殊の場合を除いて「脚気」は問題視されることはなくなった。現在流行し始めた「サプルメント」と同じ考え方である。それが「ビジネス」になる。
一方欧米では自分らの問題ではないが、日本では精白米を何故食べるのか、栄養学的に考えられないといっているようである。以前「白パンか黒パンかの優劣」がいわれたこともあるし、又最近の資料には、「whole grain」といった言葉が登場している。穀物まるごとである。
「主食は白米」といわれる日本で、最近では「精白米の可否」が問われることはほとんどなくなった。むしろ「ブランド名」が市場の問題である。
今思うのは「なぜ米を精白するのか」という問題である。答えは「おいしから」であろう。では「おいしい」とは何であろうか。テレビでお米を炊くとき「はちみつ」をすこし入れると「おいしく」なるとやっていた。(20020925)