私の衛生の旅の中で出会った人々の思い出はつきない。
先日身辺整理の中で、色々の方々から戴いた本を「古書市場」へ提供するべく手離すことになった。その一冊一冊の思い出はつきない。
今まで出会った方を題材に文章を書いたことがある。
その人のことを紹介し書いたというより、その方を題にして自分のことを書いたようである。名前の出た方々に勝手ではあるがお許しを請いたいと思う。
どんなことを書いたのか。すでに亡くなった方が何人もおられるが、感謝の意味をこめて再録した。
年代順におってみた。前のものにリンクできるのもコンピュ−タ−のおかげである。
番号はその文を書いた昭和の年号、「H」とあるのは平成の年号である。
昭和33 花田ミキさん (花田ミキさん)
女傑、保健婦の力を知らせてくれた人、看護のリ−ダ−シップをとり、行動し、しゃべり、書き、あんなにも
影響力を与えた人はどんな方かしら、といわれているので
40 熱意 (篠田岩手医大学長)
もう日数もたったことなので、名前をあげても失礼にはならないと思うし、又ゆるして戴けると思う。
42 Dr.Dahlとの出会い (Dr.L.K.Dahl)
1959年1月29日付で、私はDr.Dahlから次のような手紙を受け取った。それは、私が彼の仕事に興味をも
ち、東北地方における高血圧と食塩摂取についての私の論文の別刷りを送ったことに対するお礼の手紙で
あった。
42 Dr.Meneelyとマンモスとタイガ−と (Dr.G.R.Meneely)
Dr.Meneely のことはあまり日本には知られていない。彼はまだ日本に来たことはないし、論文の数も多
いとはいえない。ただ私がかって高血圧とりんごの関係に興味をもち、文献をあさりはじめたとき、彼の慢性
食塩中毒の実験を知り、それに対するKの・・・
42 Gate27と鍵とKeys先生 (Dr.A.Keys)
1965年9月24日、私はミネソタ州ミネアポリスの飛行場についた。 ミネソタという言葉はそのまま通じるに
しても、ミネアポリスと棒よみにしては絶対に通じないのである。ポリス・ポリスといえば、policeのところにつ
れていかれる。
43 ロンドンの名所 (Dr.G.A.Rose)
アメリカをはなれるすこし前、私はロンドンのJ.N.Morris(Uses of Epidemiologyの著者)から、次のような手
紙を受け取っていた。
47 日本列島慢性食塩中毒論 (田中角栄総理)
田中角栄著「日本列島改造論」をよみ、改造のための懇談会委員の顔ぶれをみて、日本人の健康問題はどこで論じられるのかと思うのである。専門家の意見をきいて、どしどし実行してもらいたいものだ。
48 けっさく (匿名)
近頃の読み物の中での傑作は、ひろさき医師会報の”女医訪問シリ−ズ”である。 こんなに筆の立つ人がわが弘前市医師会員の中におられるとは心強いかぎりである。この文章を書いている段階では、筆者が誰かを知らないので、心おきなく筆がすすむのだが。
50 尻にしかれたた相良治安 (相良治安)
相良知安は、日本における医学教育・医療制度を考える上で、忘れることのできない人物であると思う。 その人の記念碑が、今や看学の寄宿舎の尻にしかれたように立っているというのがこの小文のテ−マである。
50 佐藤四郎先生のこと (佐藤四郎先生)
先生が、弘前市医師会の副会長になられたのが、丁度私が教授になったのとほぼ同じ頃であったことも
あってか、色々の会合でお会いするようになった。
53 米食民族と高血圧(対談:小町) (小町嘉男先生)
佐々木:きょうは、米食民族と高血圧というテ−マで、小町嘉男先生(大阪府成人病センタ−集検第1部長)と対談することになりましたが、
54 ウイリアム・テルのリンゴ (五島雄一郎先生)
数千年もの間、人々とのかかわりをもってきた食塩のとりすぎが、この地球上に住む人々の高血圧と関係があるのではないかとの説が、極めて有力になってきた今日この
54 「リハビリ」に思う (渡辺定先生)
昭和36年11月20日、東京の日本医師会館で、寿命学研究会主催、日本医師会後援で、「脳卒中の予防・治療およびリハビリテ−ション」のシンポシウムが行われたが、この日が、わが国の脳卒中についての「リハビリテ−ション」という言葉が用いられた最初の日ではなかったかと思っている。
54 石郷岡正男先生のスナップ (石郷岡正男先生)
弘前大学医学部衛生学教室には、今はもう90冊に近くなった写真アルバムがある。その中で、石郷岡先
生のをひろってみた。
54 日本人の食塩摂取はどうあるべきか(対談:平田) (平田清文先生)
平田清文(東邦大医内科):日本人の栄養所要量は5年ごとに改正されるのですが、今、昭和55年の日本人の栄養所要量を改正すべく検討が行われているところです。
55 「飛鳥」のことなど (久保田武男先生)
久保田武男先生の教えを受けたわれわれの会の名前は、すぐ「飛鳥会」にきまった。それは先生が歴史
の時間に、熱情をもって語られた聖徳太子、法隆寺のでてくる飛鳥時代のことが、皆の頭にあったからだ。
55 北海道で運河を掘る (平尾正治先生)
昭和16年頃、北海道の太平洋側の苫小牧と日本海側の石狩とを結ぶ運河の計画があった。戦時色豊かな時である。札幌から一寸南へ下がった島松の近くの小屋に寝泊まりして、将来は大運河の一部になると聞いていた排水溝の土掘りをしたのである。
55 古賀康八郎先生の思い出 (古賀康八郎先生)
一人かけ 又一人かけ 一人かけ 弘前大学医学部の初代の教授が、時のすぎゆくと共に亡くなられて
ゆくことは、自然のなりゆきとはいえ、さびしいことである。
56 キャネル夫人のこと (Dr.& Mrs W.B.Kannel, 籏野脩一先生)
フレミンガム・スタデイのキャネル夫妻が、秋田から弘前にやってきた。 「東北地方を訪問して」という座
談会の記事をごらんになった方も多いと思うが、脳卒中が多くみられる東北地方の状況を肌で知ってもらお
うと、籏野脩一先生が計画された旅行の一部だった。
56 柳川昇先生の思い出 (柳川昇先生)
柳川昇先生にお目にかかり、直接お話をするようになったのは、先生が弘前大学学長になられ、私が大学の評議員になって以来のことである。
57 幼稚舎と綱町 (江澤清太郎先生・千浦一郎君ほか)
おふねは ぎっちらこ ぎっちらこ ぎっちらこ と口ずさむと、三田の山の下にあった幼稚舎の二階の音楽室で、グランドピアノの前に、ちょこんとすわってピアノをひいておられた江澤清太郎先生を思い出す。
57 科学者の目 (槇哲夫先生)
槇哲夫先生が弘前大学医学部におられた頃だから、もう20年以上も前のことなのだが、ある日、十和田湖へおともをしていった時のことが今も記憶にあたらしい。
57 大鳥蘭三郎先生のこと (大鳥蘭三郎先生)
兄がやっていたこともあって、幼稚舎から普通部へ上がったとき、綱町の道場をのぞきにいって、弓術部に入ることになった。
57 日本人の高血圧症(座談:家森ほか) (家森幸男先生)
(昭和57年6月16日日本短波放送から放送された)九野周一(東京・四谷内科院長):私どもが高血圧およびその合併症の診断・治療ないし管理に使用いたします知識は、国内ばかりでなく、国外の研究成果にも基づいて提供されております。
57 食塩と高血圧(座談:五島・尾前) (五島雄一郎・尾前照雄先生)
五島雄一郎(司会・東海大学内科教授・附属病院長):今日は、最近の高血圧の話題を、食塩を中心としてお2人の先生からおうかがいしたいと思います。
58 草間良男先生のこと (草間良男先生)
全く偶然のことから、草間良男先生(慶應義塾大学名誉教授)の生前の肉声をテ−プから聞くことができた。内容は未発表のものとのことであった。
58 小松富三男教授のスナップ第1号 (小松富三男先生)
小松富三男先生のスナップをはじめてとったのはいつ頃だったろうと思いながら、アルバムをめくってみたら、この写真がでてきた。
59 高血圧と食塩(対談:中村) (中村治雄先生)
中村治雄(防衛医科大学校第一内科教授):りんごをよく食べているところではあまり血圧の高い人はいないと先生は指摘されておられます。それと食塩との間には密接な関係があると思いますが、一体何がヒントであったのでしょうか。
59 美甘先生のこと (美甘義夫先生)
父と子ぐらいに年が違い、学校も、医学の中の専門も違うのに、よくお付き合いいただいたものだと思う。
59 久保田重孝先生のこと (久保田重孝先生)
久保田重孝先生は、私が生まれた大正10年に慶應義塾幼稚舎を御卒業になり、普通部、医学部と進まれたので、同じようにあとを追った私にとって、先生は小学校以来の大先輩ということになる。
60 人々と生活と (高橋信次・松永藤雄先生ほか)
第49回日本民族衛生学会総会が弘前で開催されることになった記念に、「人々と生活と」と題した写真集をつくって参加された方々にお土産にさしあげた。
60 近ごろ嬉しかった話 (一戸紀孝君)
3年生衛生学最終の試験の時だった。 定刻5分前に問題の紙をかかえて医学部講堂へ入った時、私を待ち構えていたのは、巻紙を持った一戸紀孝君と赤いバラの花束を持った宮崎恵子さんだった。
61 ド−ル先生その後 (Dr.L.K.Dahl)
勝木司馬之助先生によると、私のことを外国では「日本の塩の先生」といっているそうだ。 そういわれるきっかけは、アメリカの塩の先生のド−ル先生との出会いがあったか
61 あの頃の話 (小鹿聖四郎先生)
十年一昔というが、東京医大卒の小鹿整四郎先生が三沢に来られてから40年というから大分昔のことである。
61 昭和32年という年
昭和32年という年は、弘前大学医学部30年史によると、4月1日には医学部7回生の入学者の発表があり、30年4月医進入学の56名と文理学部2年修了の者で試験による20名、計76名を迎えた年であった。
61 研究うらばなし (高橋英次先生ほか)
山口先生どうもありがとうございます。今日はたいへん出席がよいようで・・・この一言に実はいろいろな意味があるのでございまして、
62 常磐村の保健活動のはしり (永山隆造君ら)
それは私が弘前大学医学部衛生学の教授になって間もない昭和32年であった。 医学部の衛生学の教育では、教室での講義実習のほかに、学生の自由研究をやっていた。
62 思い出すこと (吉田豊先生)
いつだったか吉田豊教授がクラス会ででた話を教えてくれたことがあった。 それは私の「医事法制」の講義をただ一人聞いてくれた方の話だった。 ああそんなことがありましたね。
62 思い浮かぶこと (品川信良先生)
いつだったか大分前のことになるのだが、品川信良教授らと、看護大学のような構想を話しあったことがあった。
62 ゆかりさんのこと (佐藤ゆかりさん)
「拝啓 初夏の候、皆様方には益々御健勝の事とお慶び申し上げます。 私こと・・・」 86年5月21日付けのこんな文面の横書きタイプの挨拶状をもらったのが最後になってしまった。
62 保健文化賞を受賞して (大高道也先生)
今回青森県から大高道也環境保健部長の推薦により「脳卒中・高血圧予防についての疫学的研究と地域住民の保健活動の推進に貢献」ということで保健文化賞を受賞したことは有り難いことであった。
62 食塩をめぐる人々 (近藤正二先生ほか)
西野忠次郎先生らの「脳溢血」の中で衛生学的研究をやられた近藤正二先生は、日本中を足で歩いて「長寿」の要因として食生活の重要性を述べ、お米の大食が食塩の過剰摂取をもたらすことを指摘されたことでも知られている。
62 日本人はどのようにして塩分を減らしてきたか(座談:香川・渡辺) (香川芳子・渡辺孝先生)
塩分摂取−−過去・現在・未来 そもそもの発端から食生活との関係が判明するまで「栄養と料理」編集部:日本で塩分摂取が医学的に問題にされ始めたのはいつごろからでしょうか。
63 品川教授のこと (品川信良先生)
品川信良教授のことで”はりの先のような意見をいう”ことが話題になったことがあった。
63 久米の清ちゃんのこと (久米清治さん)
アメリカに住んでいる久米の清(せい)ちゃんから衛生の旅 Part 4 が届いたと返事がきた。
63 水曜会の忘年会 (照井精任先生ほか)
「先生は何も知らないんですね」 「先生のような方が学部長だ学長になるから大学はだめになるんです。医学部の定員が百人になりました。どうです私の言った通りでしょう」
H1 ワシントンにて (学会のこと) (Dr.J.Stamlerほか)
今回の学会は第2回国際心臓学会( 2nd International Conference on Preventive Cardiology)で、会長はスタムラー(Jeremiah Stamler)であった。
H1 夏の汗 (相沢豊三先生)
朝はやく東京の相沢豊三先生に所用があってお電話したら、いま外出中ですとのことであった。ゴルフの早朝練習にお出掛けであった。
H1 山下廣蔵さん (山下廣蔵さん)
「山下廣蔵さんがちょと具合いが悪くなって、入院したほうがよいだろうということで今救急車で入院しました」と長男の章から電話があった。
H2 福田邦三先生の思い出 (福田邦三先生)
私の「衛生の旅」を先生にお送りしたとき、大正大地震で地面がゆれたのが、兄と一緒に外で遊んでいた私の、この世での最初の記憶にのこるできごとで、と書いたことが先生の目にとまったようで、次のようなお手紙を戴いた。
H2 山本耕一先生の思い出 (山本耕一先生)
ちょうど鵬桜会報の「衛生学教室のアルバムから」の原稿を書いているとき、「山本先生がお亡くなりになりました」と電話を戴いた。
H2 福沢先生の医に贈る書について (福沢諭吉先生)
福沢先生というのは福沢諭吉のことであるが、私が慶応義塾出身だから、幼稚舎という小学校に入学いらい福沢諭吉は先生である。
H2 杉田玄白の耄耋独語について (杉田玄白)
前に「活年(カツネン)はいかが」という文を弘前市医師会報(182号,昭61)に書いたたことがあった。
H3 産業医学へのノスタルジヤ (高橋英次・角田文男先生ほか)
「来年の秋田での東北地方会は50回を迎えるそうですが、今までに何回参加したかを考えていたところです」
H3 槇哲夫先生への返事 (槇哲夫先生)
小文(外胚葉芸術論)がお目にとまったようで嬉しく、また数々の貴重な資料お送り下さいまして本当に有難うございました。
H3 「山田信男先生の退任を慰労する会」でのお祝いの言葉 (山田信男先生)
「村民の健康を守り続けて四十四年」 この間先生が挨拶状に書かれていたように「喜びも悲しみも幾歳月」であったと思いますが、お元気でこの日を迎えられ、また本日は相馬村第1号の名誉村民の称号を受けられたこと本当におめでとうございました。
H4 SALVEO (Dr.T.Strasser)
SALVEOとは去る十月神戸で開かれたWHOフォ−ラム'91で配られたWHO-CARDIAC STUDY(循環器疾患と栄養国際共同研究)のセンタ−から新しく発刊されることになった情報誌の題名である。
H4 大統領からくじらまで (Dr.P.D.White)
この題は心臓病予防の父・ホワイト博士(Paul Dudley White: My life and medicine)の自叙伝を日本心臓財団設立十周年記念事業の一つとして翻訳・出版したときの本につけられたものである。
H4 弔詞(成田尹) (成田尹さん)
成田君 君の弔詞を私が読もうとは順序が逆です
H4 武田壌寿先生のこと (武田壌寿先生)
「弘前へきてまもなく、夫婦で初めて、佐々木先生のお宅(若党町アパ−ト)を訪問した時に、二人そろって写してもらったものが結婚式をあげなかった二人のその年の唯一つの記念写真となった」
H5 「衛生」をめぐる人々 (北博正先生ほか)
東京医科歯科大の北博正教授が衛生学の試験に「ペッテンコ−フェル」について記せという題を出したら、ある学生がその答えに「北教授の大先輩」と書いたそうだ。
H6 重松逸造先生へ (重松逸造先生)
お元気のことと思います 先生の「疫学研究50年抄」を戴きまして有難うございました
H6 「山口寿・小野淳信先生シルバ−賞・・」 (小野淳信先生)
佐々木直亮です。まず自己紹介しなければならないのですが、
H6 福士襄先生のこと (福士襄先生)
昭和29年に弘前大学医学部衛生学教室(高橋英次教授)の助教授として私が着任したとき福士襄(しょう)先生はすでに教室で研修員として勉強しておられた。
H6 弔詞「福士襄」
福士 襄(しよう)君 私が君のご霊前に弔詞を申しあげようとは 全く順序が逆だと思います
H6 弔詞「小野定男」 (小野定男先生)
小野定男先生 先生と同窓の後輩の一人として また先生に大変お世話になった者の一人として お別れの言葉を申し上げたいと思います
H6 「向井千秋さん」を負かした女 (向井千秋・加賀英子さん)
「向井千秋さん」といえば、日本初の女性宇宙飛行士ということで知らない人がいないぐらい有名になったのだが、この頑張り屋の女(ひと)を負かしたことのある女医さんがわが弘前市医師会員の中にいることを紹介しようというのがこの文の内容である。
H7 高桑栄松先生へ(1) (高桑栄松先生)
残暑お見舞い申しあげます 先日は 貴著「回想録 レ−ゾン・デ−トル」 頂戴し有難うございました
H7 高桑栄松先生へ(2)
叙勲への祝電ありがとうございました おくればせながら貴兄の叙勲おめでとうございます
H7 日循協30年前夜の人々 (西野忠次郎先生ほか)
よく結婚式などで「赤い糸によってむすばれた」という話が語られるわけですが,いま日循協のこと,また私の研究生活を振り返って考えましても, 「運命論」ではありませんが,すべて色々と,とくに人と人のつながりについて考えざるを得ません。
H8 美原賞受賞挨拶 (美原博先生ほか)
本日は思いがけず美原賞の顕彰金を頂戴することになりまして 審査にあたられた先生方に厚くお礼申しあげます
H8 先生 (草間良男・原島進・上田喜一先生)
「せんせい せんせい それはせんせい」と森昌子が唱ったのは乙女の「淡い初恋」であったのだろうけれど、色々のことを教わり心から素直に「先生」と言える方々や奥様方が相次いでお亡くなりになり、心寂しく感ずる今日この頃である。
H8 内閣「桜を見る会」 (後藤田正晴さん)
内閣総理大臣橋本龍太郎から「四月十日(水)午前九時半から正午まで、新宿御苑の染井吉野が見頃となりますので御夫婦おそろいにて御来観下さいますよう」との案内状が我が家に舞い込んだ。
H9 佐藤雄治君 (佐藤雄治先生)
平成9年5月9日朝、新聞に「佐藤雄治儀(行年74歳)病気療養中のところ5月7日午後10時36分永眠いたしました」と出た。
H9 渋沢栄一 (渋沢栄一さん)
今日平成9年6月11日新聞に「第一勧銀前副頭取ら4人逮捕」と大きく報道された。そして新聞のカラム欄には6月11日(明治6年、1873年)は「国立第一銀行」が誕生した日であることにふれ、そして「渋沢栄一」の名前が出ていた。
H9 丸山博先生のこと (丸山博先生)
本誌公衆衛生(Vol.60)に「21世紀へのメッセ−ジ」として「私の遺言書」を書かれた丸山博先生が本当に亡くなられてしまった。
H10 石坂洋次郎のこと (石坂洋次郎さん)
石坂洋次郎の書いた「ストリップ・ショウ」の原文を読むことができた。前号「ストリップ第3話」の続編であ
る。
H11 追悼山形操六君 (山形操六君)
平成11年1月1日 君は亡くなったという。 朝年賀状の中に君からのを見て、無事に年を送ったと思ったばかりだったのに。 ”六さん”と呼ばせてもらおう。頑張ったのに とうとういってしまったのか。
H11 食塩覚書その1”日本の塩の先生”推理 (勝木司馬之助先生)
学会で勝木司馬之助先生(九大内科)にお会いしたとき、先生は国際学会からお帰りになったあとだったか、「”日本の塩の先生はどうしていますか”と聞かれましたよ」と笑いながら私に話かけられたことがあった。
H11 食塩覚書その2追加 (阿部達夫・平田清文先生)
食塩覚書(栄養所要量10g以下の意味)をインタ−ネットに出したら早速阿部達夫・平田清文両先生からご連絡を戴いた。大事なことなので追加として書いておく。
H11 日本労働衛生史研究会への出題 (三浦豊彦先生ほか)
三浦豊彦先生らがやっておられた日本労働衛生史研究会を仙台に帰られた加美山茂利先生が主催し平成11年9月19日開催されるとの記事をみたとき、その日付けを手帳に書き入れていた。面白い演題でもあったら久しぶりに仙台へ行ってもよいという気持からだった。
H12 「狼森」覚書 (鳴海康仲先生ほか)
「狼森」「おおかみ」「もり」と書いて、「おいのもり」と土地の人はいう。「狼の森」「狼ノ森」と「の」や「ノ」が入ることもある。そして土地の人は「狼森部落」という。
H12 「西目」覚書 (西目村のひとびと)
「西目」とは秋田県由利郡西目村(現西目町)のことである。 昭和32年7月8日秋田市で第6回東北6県地方公衆衛生学会が開催された時、
H12 「金屋」覚書 (金屋のひとびと)
「金屋」(かなや)とは青森県尾上町金屋のことであるが、弘前市狼森と秋田県西目村(現西目町)に次いで住民の血圧測定が約20年間観察出来た部落について記憶に残ることを記そうと思うが、
H12 「厚生省はカルト集団」か (山崎正和さん)
厚生省があたかも「カルト集団」かに受けとれる論説を新聞でみた。
H12 北博正先生のこと (北博正先生)
北博正(きた・ひろまさ)先生が平成11年7月19日に肺炎のため病院で89歳で亡くなったことを新聞で知った。
H12 「日本心臓財団」覚書 (美甘義夫先生ほか)
「日本心臓財団」が創立30周年を迎えるという。記念誌に寄稿をということであった。
H12 津川武一先生のこと (津川武一先生)
「東北初の共産党代議士で、地方の医療、文学の発展にも尽くした故津川武一氏の記念碑(津川武一・生誕の地碑)が生誕九十年目の今年、浪岡町吉内の生家に建てられた」と東奥日報紙(平成12.8.12.)に報道された。
H12 高木先生のこと (Mr.T.Takagi)
高木先生とは、私が英語の個人教授を受けたMr TAKAGIのことである。
H13 「ハ−バ−ドがんちゃん」のこと (渡辺厳一先生)
「ハ−バ−ドがんちゃん」とは新潟大学名誉教授渡辺厳一先生の書いた本の題名である。
H13 ドクタ−・フライデ−のこと (星島啓一郎先生)
ドクタ−・フライデ−とは福島県立医科大学名誉教授・前衛生学教授星島啓一郎先生のことである。
H13 ジレンマ・トリレンマ そして疫学 (外山敏夫先生)
ジレンマとは「dilemma」で、接頭語の「di」は二重のであり、「lemma」は仮定であって、二重の困難な仮定にはさまれることとあった。一方を立てれば他方が立たないような相矛盾する二つの事柄であり、二者択一のジレンマ・板挟みである。
H13 森下君のこと (森下孝君)
こんどの戦争では多くの友人を失った。その中の一人森下孝(たかし)君のことを書いておこう。 こんどといっても私は日清・日露の戦争のことは知らない。
H14 衛生学教室News(1967−1986)(昭42−61)抜粋を入れました
H15 仲人物語 (三橋禎祥先生ほか)